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入れ墨(いれずみ)とは、針・刃物・骨片などで皮膚に傷をつけ、その傷に墨汁・朱・酸化鉄などの色素を入れ着色し、文様・文字・絵柄などを描く手法、および、その手法を使って描かれたものである。
入れ墨は比較的簡単な技術であり、野外で植物の棘が刺さったり怪我をしたりした際に、入れ墨と同様の着色が自然に起こることがあるため、体毛の少ない現生人類の誕生以降、比較的早期に発生し普遍的に継承されて来た身体装飾技術と推測されている。
古代人の皮膚から入れ墨が確認された例としては、アルプスの氷河から発見された5300年前のアイスマンが有名であり、その体には入れ墨のような文様が見つかっている[1]。
また、1993年に発掘された2,500年前のアルタイ王女のミイラは、腕の皮膚に施された入れ墨がほぼ完全な形で残されたまま発掘されている。
日本の縄文時代に作成された土偶の表面に見られる文様[2][3]は、世界的に見ても古い時代の入れ墨を表現したものと考えられており、縄文人と文化的関係が深いとされる蝦夷やアイヌ民族の間に入れ墨文化が存在(後述)したため、これも傍証とされる。
続く弥生時代にあたる3世紀の倭人(日本列島の住民)について記した『魏志倭人伝』中には、「男子皆黥面文身」との記述があり、黥面とは顔に入れ墨を施すことであり、文身とは身体に入れ墨を施すことであるため、これが現在確認されている日本の入れ墨の最古の記録である。
また『魏志倭人伝』と後の『後漢書東夷伝』には、
と、共通した内容の入れ墨に関する記述が存在し、入れ墨の位置や大小によって社会的身分の差を表示していたことや、当時の倭人諸国の間で各々異なった図案の入れ墨が用いられていたことが述べられている。魏志倭人伝では、これら倭人の入れ墨に対して、中国大陸の揚子江沿岸地域にあった呉越地方の住民習俗との近似性を見出し、『断髪文身以避蛟龍之害』と、他の生物を威嚇する効果を期待した性質のものと記している。
日本において入れ墨が施されて来た理由は、身体装飾・個体認識・社会的地位や身分の表示・宗教上の理由など多種多様であり、その歴史的経緯はいくつかの曲折を経たため、多様な呼称が存在する。
など様々な表現で呼ばれており、入れ墨を施す行為も墨を入れる、彫るなどと表現されるほか、苦痛と金銭的な負担をかけて『がまん』と呼ぶ場合もあるとされる。なお、近年のマスメディアによる報道、法律・条例の条文では、入れ墨という呼称が用いられる[5][6]。
古来より、入墨(江戸時代の刑罰に由来する)や彫物という呼称が多く使われる一方で、近年では、小説『刺青』、映画『TATTOO<刺青>あり』[7]、中森明菜の楽曲である『Tattoo』や、ロシアのアイドルユニットである『t.A.T.u.』といった大衆文化の影響から、刺青やタトゥーと呼ばれることも増えている。
また、日本の伝統的な入れ墨を和彫りと呼ぶのに対して、欧米における入れ墨の呼び名であるタトゥー (tattoo) [8]を洋彫りと呼び分けている場合もあるが、両者に本質的な違いはなく、図案や描画の技法に違いがあるのみである。
古代中国では、
入れ墨は容易に消えない特性を持ち、古代から現代に至るまで身分・所属などを示す個体識別の手段として古くから用いられて来た。
有名な例ではナチの親衛隊員が、戦闘中に負傷した際に優先的に輸血を受けられるよう左の腋下に血液型を入れ墨(SS blood group tattoo)していたほか、アウシュヴィッツなどの強制収容所に収容された人々は腕に収容者番号を入れ墨されていた。
人間以外の家畜やペットに対しても個体認識のために入れ墨や焼印が行われて来た歴史があり、かつての欧米では囚人の管理用に広く用いられたほか、近年でもユーゴ内戦時の各収容所において入れ墨による識別が行われていたことが知られている。
また、こうした強制的なケースばかりではなく、出漁中に事故に遭う可能性のある漁師が、身元判定のために入れ墨するケース(類似に木場の川並が好んで入れていた「深川彫」など)や、首を取られてしまえば身元不明の死体として野晒しになるおそれのあった日本の戦国時代の雑兵が、自らの氏名などを指に入れ墨したケースなども知られている。
罪を犯した者に対して顔や腕などに入れ墨を施す行為は、古代から中国に存在した五刑[9]のひとつである墨(ぼく)・黥(げい)と呼ばれた刑罰にまで遡るとされる。
墨刑は額に文字を刻んで墨をすり込むもので、五刑の中では最も軽いものだった。前漢の将軍・英布(黥布)は若い頃に顔に罰として入れ墨を施されたことから逆に自ら黥を名乗ったと伝えられている。
『日本書紀』中にも、履中天皇元年四月に、住吉仲皇子の反乱に加担した阿曇野連浜子に『即日黥』(その日に罰として黥面をさせた)との記述[10]がある。この記述は、海人の安曇部の入れ墨の風習を、中国の刑罰と結びつけて説いた起源説話とされている。阿曇野連は漁民でもある海部(あまべ)を統括する氏族であり、河内飼部は馬の飼育にかかわる河内馬飼部(うまかいべ)のことであり、また鳥の飼育をするのが鳥飼部である。これらは、生き物を飼う職能集団であるという共通性がみられる。飼育している生き物からの危害を避け、威嚇する意味も含めて、こうした呪術的意味を含み黥面をしていたと推側する研究者もいる。
また『日本書紀』雄略天皇10年10月には宮廷で飼われていた鳥が犬にかみ殺されたので、犬の飼い主に黥面して鳥飼部(とりかいべ)としたとの記述[11]がある。
江戸時代には左腕の上腕部を一周する1本ないし2本の線(単色)の入れ墨を施す刑罰が科せられた。施される入れ墨の模様は地域によって異なり、額に入れ墨をして、段階的に「一」「ナ」「大」「犬」という字を入れ、五度目は死罪になるという地方もあった。
現代かつ外国の事例では、2017年6月12日、ブラジルサンパウロ市近郊で17歳の少年の額に「私は泥棒で負け犬」という入れ墨を彫った男2人が地元警察に逮捕された例がある[12]。
米国における入れ墨は、1960年代末に世界的に流行したヒッピー文化(大麻やLSDなどの嗜好やカルト宗教への帰依などを特徴とする)に取り入れられて成長したため、その図案や表示するメッセージなどにおいて両者は不可分の関係にあり、ドラッグ・カルチャーとの関連からヒッピー達が好んだヒンドゥー教やチベット仏教に由来する梵字[13]やオカルト的な図案が多く好まれていた。
近年の日本では、ヒッピー文化の影響を受けた両親を持つ団塊ジュニア世代以降の若年層に第2世代ヒッピーが、ファッションとしての意味合いで入れ墨を施すことが流行している[要出典]。 こうした「入れ墨のファッション化」[要出典]と日本国内のサブカルチャーの影響により、アニメのキャラクターやアイドルなどを入れ墨する事例も現れている[要出典]。入れ墨といえば前述の反社会性ばかりが取沙汰された時代があったが、歌手の安室奈美恵が自らの亡き母親や息子の名前を入れ墨にしている事例からも解るように、一部の人たちは「愛する対象との同一化」や「憧れの対象との同一化」を図るための自己表現の為の装飾道具に変化しつつあると主張している[要出典]。
こうした大衆社会の風潮[要出典]に対して、大手企業を中心としたマスメディアでは「入れ墨」を従来の入れ墨と同様に反社会的なサインとして関連付けてイメージ誘導した例[13]が見られる。
21世紀に入った頃から、外国で日本語の特に漢字を使うことが多くなった。Tシャツの文字にも同じ傾向があるが、日本人にとって理解不能な「永谷園」や「狂犬」など意味を知らずに入れているのを見る機会が増えた。例えば、映画『トランスポーター3』では誘拐された女性が首の後ろに「安」、『幸せの教室』ではタリーという女の子が背中に「醤油」という漢字をタトゥーしている。
女性の眉や唇などに針の深度を浅くしたアートメイク・タトゥー(数年で薄くなるが完全に消えはしない)を施すほか、南アジアやアフリカの女性が施すヘナ(植物性の染料)を用いて手に模様を描く(染料なので消える)ことが行われている。
TATsと呼ばれるエアブラシを用いて皮膚表面に色素を定着させ、針を使った入れ墨に近い描画を可能とした技法も存在する。この手法では一度描いた文様を油性溶剤を用いて消し去り、新たに描き直すことも可能であるため、一般的な入れ墨では忌避されるような図案であっても大胆に描くことが可能であり、入れ墨を入れる前に図案が自分に合うかどうか事前に確認する用途にも用いることができる。
また、神社の祭礼時の出店などで良く売られている、模様の印刷された極薄のフィルムに超微粒子の顔料を使用した、プラモデルの耐水デカールの様に肌に転写する「タトゥーシール」もあり、ファッションの一部として用いられているが、こうした“消せるタトゥー(入れ墨)”の存在が「入れ墨は消せないが、タトゥーは消せる」といった誤った認識を一般人の間で蔓延させる要因ともなっている。(ただし針を浅く入れるライトタトゥーをおこなえば、数年で消えてしまうようにする事も可能である。)
美容用途の入れ墨は人間以外に対しても行われており、色素が薄い白毛の犬などの鼻部に生じてしまう白斑を隠すために黒色の入れ墨を施し、ドッグショーでの評価を上げるケースなどが知られている。
主に性的サービス業に従事する女性が、男性の性的興奮を高める性的装飾として入れ墨を施す文化が各国に存在しており、女性器の周辺を装飾している場合も多い。
性的パートナーに対する服従や、仮想的な所有関係を示すために入れ墨を入れる事例も存在する。日本においては、暴力団関係者の性的パートナーとなった女性が、他の男性に対して一般の女性とは異なる存在であることを明示するために入れ墨を入れる。
日本においては、日本画家の小妻要(小妻容子)の描く“刺青美人画”や“刺青緊縛画”の様に、入れ墨の性的側面や嗜虐性を強調した独自の絵画ジャンルも存在する。
東南アジアの一部の国においては、適齢期に婚期を逃した独身女性が眉部に太幅の眉毛の形状(ちょうど日本のバブル期に流行した眉毛の形である)に入れ墨を施すことで、特定の男性に限定されずに幅広く恋愛を行う意思(=夜這いへの誘い)を示すサインとする習俗がある。
日本の暴力団や中華系の幇など、反社会的な組織の構成員の多くが入れ墨を入れている。欧米においても、ロシアのマフィアや米国の白人至上主義団体が入れ墨を構成員の象徴として用いている。
日本の暴力団関係者が入れ墨をする理由としては、社会からの離脱と帰属組織への忠誠を表す、痛みに耐えて消えない刻印を背負うことで覚悟を示す、また「彫り物をしている」と流布することで周囲を威圧する、等が挙げられる。その図案は日本の伝統的な題材を描いたいわゆる「和彫り」が主流である[14]。
特定の犯罪組織への帰属を示す入れ墨の存在により当該犯罪組織からの離脱が困難になる場合があるため、米国においては自発的な犯罪組織脱退者に対して入れ墨除去手術の費用を公的に負担する場合がある。
反社会的な組織に限らず、近代国家においても、国家への帰属意識・忠誠の確認として入れ墨を入れた例がある。朝鮮戦争において中華人民共和国が義勇軍の名目で参戦した時、実際にはその名に反して多くの者が国民党軍から寝返ったばかりの兵士であり、人海戦術の使い捨ての駒とされた。そのため少なからぬ数の兵士が、自ら国連軍に投降し、そうでなくても捕虜となった義勇軍兵士たちは、中華人民共和国への帰参を望まなかった。中国義勇軍の捕虜たちの3分の2を占める1万4000人が大陸ではなく、台湾への渡航を希望した。台湾への渡航を希望する者は、自らの意思で、あるいは半ば強制されて、国民党への忠誠・反共を表す文言を入れ墨として入れた。
器具を使ったから「洋彫り」、手で彫ったから「和彫り」とは一概に分類できず、絵の画風や全体の様子で判断する。和風の絵でも筋は器具で、ぼかしは手彫りで行うなど、手法は彫師により千差万別である。 現在は痛みの少ない機械彫りが主流であるが、日本の伝統的な手彫りの場合は激しい激痛を伴う。痛みに耐えるために口に咥えるタオルが歯ぐきからの血で滲むこともある。そのため、暴力団などの間では手彫りが一種のステータスとなっている。現在では技術の進化、向上により肌へのダメージが最小限に抑えられている。彫り師の技術はそこで判断することもできる。
オートクレーブ等の殺菌方法によっては血液中のウイルスを死滅させることはできないため[要出典]、施術用の針やインクの再利用はC型肝炎等のウイルス感染の原因となる。そのため、血液の付着する施術用の針やインクは使い捨てにする必要がある。
昭和の頃に和彫りの入れ墨を施した者に対してはMRI検査を行うことができない場合がある。これは当時使用されていた刺青顔料に金属が多く含まれているためである。MRI検査の際に金属が多く含まれる顔料を使用した入れ墨がある部分に、火傷や痛み、入れ墨の変色が発生することや、MRI画像にノイズが入ることがあるためである[16][17][18]。このようなトラブルは入れ墨に使われるインクの成分 (特に酸化鉄やその他の金属成分が原因とされる) によって発生する。病院ではMRI検査の前に患者に入れ墨の有無を確認することがあるが、それは古い時代に金属顔料を含んだ和彫りを入れた者に火傷が発生した事例が有るためである。ただし、このような事例は平成以降に製造されたタトゥーインク(酸化鉄などをチタンなど磁性を帯びない金属で代替しているインク)の場合には稀であり[19]、アメリカ食品医薬品局は火傷のリスクに比べてMRIによる診断を行う有用性の方が非常に高いとしている[20]。もし仮にMRI撮影を行う場合でも、入れ墨がある部分に冷却材などを当て、医療従事者が細心の注意を払い、異常があれば即座に撮影を中断できるような体制を作ることが求められる[21]。
美容外科では入れ墨の除去手術が行われている。その方法としては、皮膚の表面を削りガーゼで顔料を吸い取る、自家植皮をする、レーザーで色素を分解する、入れ墨が小さい場合には縫い合わせる、といったものがある。入れ墨の除去手術をしても手術痕は残る上、複数回の手術が必要となるため患者は苦痛に耐え続けなければならず、健康保険が適用されないため多額の費用も必要であり、入れ墨の除去手術には種々の困難を伴う。入れ墨を施す際には、除去手術がこのように極めて困難であることを十分に考慮する必要がある。
入れ墨に対する法的規制は、敗戦後の1948年(昭和23年)、軽犯罪法の公布とともに解かれた(それまでは警察犯処罰令で処罰対象だった)ため、現在の日本では入れ墨そのものに対する法的規制は存在しない。ただし、入れ墨に対する間接的な法的規制として、次のようなものがある。
入れ墨を入れた者は公衆浴場法で定められた浴場を除いた入浴施設[22][23][24](温泉、大浴場、サウナ、スーパー銭湯、健康ランドなど)や遊園地、プール、海水浴場、ジム、ゴルフ場などへの入場を断られることがある。これは過去に暴力団員が入れ墨を威勢を示す手段として用いてきたことによる。施設管理者に逆らった場合は建造物侵入罪(刑法130条前段)の構成要件に該当し、入れ墨をした者が退場を求められても従わなかった場合は不退去罪(刑法130条後段)の構成要件に該当する。しかし最近では外国人も多くいるため入場を規制しない施設や入れ墨をシールで隠す対応を取れば入場を可能とする施設が出てきている[25]。
司法当局は入れ墨の有無を当人の社会的スタンスを示す明確な指標として認識しており、逮捕された者は留置施設において入れ墨の有無確認とその写真を撮影される。
入れ墨は江戸時代以降は刑罰の一種であり、現在でも暴力団関係者の象徴として用いられることがある。
就職採用に当たり身体検査のある企業への就職には制限がある。公務員では自衛官など一部の職種は身体上の不具合として採用されない[28]。
入れ墨が原因で勤務先からマイナス評価を与えられたり、懲戒解雇の対象とされたり、コンプライアンスの観点から雇用契約を破棄されたりと、社会生活上様々なリスクを負ったケースも報告されていた。2012年2月の大阪市の事例では児童福祉施設で働く30代の市役所職員が子どもたちに入れ墨を見せて脅していたという件で、橋下徹大阪市長は全職員を対象にアンケート調査を行い、入れ墨が他者の目に触れる可能性のある職員に関しては、直接市民と接することのない部署への配置転換を行った[29]。大阪市による入れ墨調査について回答を拒否した職員に対しては戒告処分となったが、この処分について最高裁は合法とした[30]。
全日本柔道連盟は2016年12月に、入れ墨をした選手を2018年4月以降、高校生以下の全柔連主催大会で出場禁止にすることを決定。この年、入れ墨をした中学生選手が出場してから対応を検討してきた[31]。Jリーグでは各クラブが厳重注意という形で通達をしている[32]。プロ野球ではアレックス・カブレラのような例がある。プロボクシングではライセンス取得のために、皮膚移植やレーザー除去した選手もいる[33]。2014年時点で日本ボクシングコミッション(JBC)のルールブック「試合出場ボクサー」の項には、入れ墨に関する記述があった[34]。
入れ墨の施術は医師が行うのでなければ保健衛生上の危害を生ずるおそれのある行為であり、入れ墨の施術には医師免許が必要である。具体的には、「針先に色素を付けながら、皮膚の表面に墨等の色素を入れる行為」を医師免許を有しない者が業として行えば医師法第17条に違反し(平成13年11月8日付け医政医発第105号厚生労働省医政局医事課長通知)、同法第31条第1項第1号により3年以下の懲役若しくは100万円以下の罰金に処せられ、又はこれを併科される場合がある。2010年7月には、医師免許を持たずに元暴力団組員らに対し強制的に入れ墨を施していたとして、兵庫県警が彫り師の暴力団組員を逮捕した[35]。
縄文・弥生期の日本は、世界でも有数の入れ墨文化を有していたと考えられている。縄文時代の土偶には入墨を思わせる紋様が描かれているほか、魏志倭人伝によると邪馬台国の男は皆入墨をしていたという。
ところが、集権国家が形成されはじめた古墳時代になると、人物を模った埴輪の表面は文様を持たない簡素なもの[37]これをして入れ墨の風習が廃れたと主張する意見がある。[誰?]
また、古代の畿内地方には入れ墨の習俗が存在せず、入れ墨の習俗を有する地域の人々は外来の者として認識されていた、との主張も存在する。 これは、古事記 の神武天皇紀に記された、伊波礼彦尊(後の神武天皇)から伊須気余理比売への求婚使者としてやって来た大久米命の“黥利目・さけるとめ”(目の周囲に施された入れ墨)を見て、伊須気余理比売が驚いた際の記述[38]を論拠とするものである。
さらに、日本書紀には蝦夷が入墨をしているという記述があり、全員入墨をしていたという邪馬台国と大和朝廷とでは、入墨に関して正反対の態度が伺える。
これに対して、顔に入れ墨と思しき線が刻まれた人物埴輪が畿内地方からも出土[39]している例や、出土地域による図案の違いから類型化もなされている事実などが、反証として挙げられている。
現在までに発見された、人物埴輪の顔に施された入れ墨と思しき線は、
に大別されている。
日本人考古学者の視点には、入れ墨が刑罰化されて以降強まった否定的な感覚や、後世に再構築された神道観が影響を与えているとの考察も存在する。
一方では、集権化の進行とともに社会構成が変化し、大部分の人口が権力者に所有される存在となったことで、個人の社会的身分を示す入れ墨が不要となり、入れ墨が権力者や呪術者、特殊な職能を持つ者(馬飼・鳥飼など動物の飼育を担当する者達)[40]など一部の人々の特権的なサインとなり、これを反映して入れ墨を施された埴輪が少数となった、との考察も存在する。
古代の日本における入れ墨の習俗が廃れるのは、王仁および513年の百済五経博士渡来による儒教の伝来以降と考えられ、以降の律令制の確立とともに入れ墨は刑罰としての入墨刑に変化した。
一方では、律令制の確立と密接な関係を持つ遣唐船の乗組員達に入れ墨の習俗があったとされ、後に発生した倭寇集団もまた入れ墨を入れており、海上交易や漁撈を生業とする人々の間では、呪術と個体識別の目的で広く入れ墨が施された。
この他、蝦夷や隼人といった人々や、儒教と対立した密教の僧侶によって、入れ墨の技術が継承された。山岳仏教出身者であり、書寫山圓教寺を開いた性空は、胸に阿弥陀仏の入れ墨を入れていた(「阿弥陀来迎図流転の謎」 2.天台本覚思想と来迎図)。日本においては耳なし芳一の説話が有名だが、経文を直接身体に書き込む行為は、仏法への帰依とその加護を得る目的で広く行われた。現代のタイやカンボジアなど小乗仏教の盛んな地域では、経文を身体に入れ墨する習慣が一般的に見られる。
中世に入ると人々の日常生活を描いた絵画が残されるようになるが、これらの絵画に入れ墨をした人々が描かれている例は見られない。
また、戦国時代には死を覚悟した雑兵達が、自らの名や住所を指に入れ墨で記す個体識別目的の習俗があった。
四代将軍徳川家綱の時代(延宝・天和年代)には、江戸神田の釣鐘与弥左衛門が名高い彫師であった。
現代に続く日本の華美な入れ墨文化は、江戸時代中期に確立された。
江戸や大阪などの大都市に人口が集中し始め、犯罪者が多数発生するようになったため、犯罪の抑止を図る目的で町人に対する入墨刑が用いられ、容易には消えない入墨の特性が一般的に再認識されたことで、その身体装飾への応用が復活した。
遊郭などにおいては、遊女が馴染みとなった客への気持ちを表現し起請する手段として、上腕に相手の年の数のほくろを入れたり、「○○命」といった入れ墨を施す「起請彫(きしょうぼり)」と呼ばれた表現方法が流行した。
こうした風潮に伴って、古代から継承された漁民の入れ墨や、経文や仏像を身体に刻む僧侶の入れ墨といった、様々な入れ墨文化が都市で交わった。
江戸時代末期には、歌川国芳を代表とする浮世絵などの技法を取り入れて洗練され、装飾としての入れ墨の技術が大きく発展した。
装飾用途の入れ墨は入墨刑とは明確に区別され、文身と呼ばれることが多く、江戸火消しや鳶などが独特の美学である『粋』を見せるために好んで施した。
参照:当時の浮世絵に描かれた入れ墨
背中の広い面積を一枚の絵に見立て、水滸伝や武者絵など浮世絵の人物のほか、竜虎や桜花などの図柄も好まれた。額と呼ばれる、筋肉の流れに従って、それぞれ別の部位にある絵を繋げる日本独自のアイデアなど、多種多様で色彩豊かな入れ墨の技法は、この時代に完成されている。
十一代将軍徳川家斉の時代(文化年代)に入れ墨の流行は極限に達し、博徒・火消し・鳶・飛脚など肌を露出する職業では、入墨をしていなければむしろ恥であると見なされるほどになった。
刑罰で入れ墨を施された前科者がより大きな入れ墨を施すことでこれを隠そうとする場合もあった。幕府はしばしば禁令を発し、厳重に取り締まったが、ほとんど効果は見られず、やがてその影響は武士階級にも波及して行き、旗本や御家人の次男坊・三男坊や、浪人などの中にも、入れ墨を施す者が現れるようになり、図案にも「武家彫り」や「博徒彫り」といった出身身分の違いが投影された。
下総小見川の藩主内田正容などは、一万石の知行を持つれっきとした大名でありながら入墨を入れていたと言われる。ただし正容は幕府に不行跡を理由に隠居を命ぜられた。
時代劇で有名な江戸町奉行の遠山景元に入れ墨があったとの伝承が残されているが、これを裏付ける資料は発見されていない。
また、当時の武士階級の間では、入れ墨のある身体を斬ることに対して、その呪術性への恐れから生じた忌避感情が存在していたことも記録[41]されており、市中では帯刀できない町人にとって、刃傷沙汰を避ける自衛策としての側面もあった。
明治維新以降、近代国家体制の構築に邁進した新政府は、1872年(明治5年)の太政官令によって入墨刑を廃止するとともに、同年11月に司法省が発令した違式註違条例を受けて旧幕臣出身である大久保一翁東京府知事が発した布告によって、装飾用途の入れ墨を入れる行為を禁止[42]し、既に入れ墨を入れていた者に対しては警察から鑑札が発行された。
以降、1948年(昭和23年)まで日本における入れ墨は非合法の存在となり、入れ墨を施す行為は厳しく取り締まられ、当時の彫師達は取り締まりを恐れて住居を転々と移した。
しかし、日本の伝統的入れ墨の芸術性と高い技術は外国船の船員を通じて世界に広く知られ、1881年に英国のジョージ5世とアルバート皇子が来日した際に入れ墨を入れさせたと伝えられている[43]。
また、1891年に皇太子時代のニコライ2世(ジョージ5世の従兄弟にあたる)とギリシャのゲルギオス皇子が来日した際にも両腕に龍の入れ墨を入れたことが知られている[44]。
明治初期における厳しい取締りの後、入れ墨はある程度黙認される存在へと変わり、小泉又次郎(小泉純一郎の祖父)のように禁令後に入れ墨を入れながら政治家として活躍する人物も現れた。
また、入れ墨の持つ性的装飾としての側面や嗜虐性も、この時期から大衆文化のなかで再度クローズ・アップされはじめている。
こうした背景から、谷崎潤一郎の『刺青』発表の後、江戸川乱歩の「黒蜥蜴」のように現代まで継承されているキャラクターが出現したほか、横溝正史は多くの作品で入れ墨をモチーフとして、あるいは小道具として多用した。
現代の日本においては、日本の芸能人やアーティスト、ファッションモデルたちの中に入れ墨をしている人たちが増加している。その為、若年層を中心に「おしゃれ」を楽しむためのツールとして「ファッションタトゥー」「プチタトゥー」「ワンポイントタトゥー」を入れる者が、女性を中心に少しずつ増加する傾向にある。また入れ墨を扱った「TATTOO girls」[46]などファッション雑誌も各種出版されている。なお、「ヘナタトゥー」の場合は時間の経過とともに消えてなくなる。
現代の日本においては、一部のアクセサリーや衣服などを販売する店においては、入れ墨をしている店員が客に入れ墨を隠すことなく仕事をすることも珍しくない。
入れ墨を除去することは入れ墨を彫ることよりも困難であり、さらには、完全に入れ墨を除去することは不可能であるため、入れ墨をしている者は大手ないし一般的な企業・職業における業務や出世などに悪影響を及ぼすということを覚悟をしなければならず、入れ墨を入れた者が結婚や出産を行う際にも家庭問題で支障をきたすこともあり、親が入れ墨を入れているという理由で子どもが学校でいじめられる、または逆に脅威に感じて敬遠されて友人ができないなどの事例もある。また、海水浴場で入れ墨をした者の入場を禁じる条例が物議を醸すなど公衆の場で受け入れられているとは言い難い事例も存在する。だが、こうした風潮が形作られたことを法律の拡大解釈によるいじめであり、警察の力を示すための示威行為とみる者もいる[47]。
日本領に編入されるまでの蝦夷、アイヌ民族、琉球王国の領域では、それぞれ独自の入れ墨文化が存在した。
日本書紀の記事中には、武内宿禰の日高見國からの帰還報告として、蝦夷の男女が文身していたことが記されている(景行27年2月条)[48]。
アイヌ民族の入れ墨は成人女性が手や口の周りに施すものが知られており、1871年(明治4年)以降禁止されたが、隠れて行なわれることも多かったとされ、文化的に重要な位置を占めていたとされる。 また、現代のアイヌ女性が重要な儀式に際して口の周りを黒く塗るのは、かつての習俗の名残とされる。
琉球王国では「ハジチ(針突・ハドゥチ・パリツク・ピッツギ)」と呼ばれる入れ墨文化があった。ハジチは女性のみが行い、琉球人であることを示すことで本土や中国の人攫いから身を守る役割があったとされる。さらに、魔よけや後生(死後の世界)への手形とする民間信仰、成人儀礼としての意味もあり、美しさの象徴ともされた。
笹森儀助は宮古島では11, 13歳に施す成女儀礼であり、またそれがないと後生に行けないと著作に記しており、かなり強制力があったようである。沖縄本島では14歳くらいから施し始め、少しずつ文様を増やしていく。文様には地方によって微妙な違いがあり[49]、両手に23の文様を彫りこんで完成とし、その頃が結婚適齢期とされていた。文様のそれぞれには太陽や矢といったさまざまな意味がこめられていた。宮古島の場合は手背や前腕に彫り、文様が多彩で、人頭税下、貧困にあえいでいた島であるので、米のご飯をたべる女性に育って欲しいという文様(食器、箸など)もある[50]。
琉球が沖縄県として日本へ編入された後も、しばらくこの旧習は維持されたが、1889年(明治22年)10月21日に沖縄県にもハジチ(入れ墨)禁止令が出されたため、ハジチの習俗は廃れた。しかし平成の初め頃までハジチを施した高齢者がみられたと伝えられている。
などが含まれており、罰則には罰金以外に笞刑(鞭打ち)が含まれるなど、全体主義国家における生活統制を彷彿とさせる内容であり、旧江戸町民の生活を厳しく制約した。
実施から8ヶ月が経過した明治6年7月のわずか1ヶ月間での逮捕者が1608名、罰金額696円30銭という記録が残されており、多くの江戸習俗がこの条例によって命脈を断たれるか、条例の施行されていなかった地方へ逃れた。
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