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人工妊娠中絶(じんこうにんしんちゅうぜつ、英: Induced abortion)は、人工的な手段を用いて意図的に妊娠を中絶させることを指す。妊娠中絶の一つであり、刑法では堕胎と言う。俗語で「堕ろす(おろす)」とも呼ばれる。本稿では、人工妊娠中絶を中絶と表記する。
頚管の拡張後に掻爬術(独:Auskratzung)や産婦人科器具(胎盤鉗子やキュレット、吸引器など)で胎児を取り除く方法(英語で「拡張と掻爬」という意味で D&C(Dilation and Curettage)とも呼ばれる)で中絶術が実施される。海外ではミフェプリストンや同様の効果を持つ[1]メトトレキセートなどの薬剤も使われる。ドイツ[2]、フランス、イタリアなどのように、法定中絶期限または医学上の理由を除く任意の中絶期限を、この初期中絶相当の時期までに制限する国もある。
この時期は胎児がある程度の大きさとなるため、分娩という形に近づけないと中絶ができない。そのためラミナリアやメトロイリンテルなどで子宮頚部を拡張させつつ、プロスタグランジン製剤(膣剤、静脈内点滴)により人工的に陣痛を誘発させる方法がある。また、海外では中期中絶にも器具を用いるD&E(Dilation and Evacuation ;「拡張と吸引」)と呼ばれる手法がしばしば行われ、WHOも陣痛誘発法より優先すべきことを推奨している。日本では妊娠12週以降は死産に関する届出によって死産届を妊婦は提出する必要がある。
妊婦側の申し出による中絶は法的に認められておらず、また医療上の理由で母体救命のため速やかな胎児除去の必要性が生じた場合でも、早産の新生児が母体外でも生存可能な時期以降は帝王切開など胎児の救出も可能な方法を優先すべきである。しかし、それが不可能な状況のとき又は他の方法を施しても胎児の生存の見込みが無いと判断されたとき、胎児の体を切断したり頭蓋骨を粉砕して産道から取り出す等の緊急措置が行われることも想定される。胎児縮小術、回生術、部分出産中絶(partial-birth abortion)、D&X(dilation and extraction ;「拡張と牽出」)といった名称で呼ばれる。かつて医療水準が低かった時代には、分娩時に手足が引っ掛かった逆子や胎児の頭が大きすぎて骨盤を通過できず母体が体力消耗して生命の危機にさらされたとき、こうした救済措置がとられることがあった。
12週未満の大部分の中絶胎児は医療廃棄物(感染性廃棄物)として廃棄され、12週以上の死胎は、墓地埋葬法に規定する「死体」として火葬・埋葬される。2004年、横浜市の産婦人科が一般廃棄物として中絶胎児を処分していた疑いで捜索されたことを受け、環境省および厚生労働省は法的な処理規定が曖昧だった12週未満の中絶胎児の取扱いについて各自治体へアンケートを実施し、「12週未満であっても生命の尊厳に係るものとして適切に取り扱うことが必要であり、火葬場や他の廃棄物とは区別して焼却場へ収集している自治体の事例を参考とするように」との見解を示した[3]。
中国やアメリカでは、中絶処置で摘出された胎児の組織を利用して、アルツハイマー病やパーキンソン病の治療などの研究に使用されている[4][5]。アメリカではそのための法整備も整っており、網膜色素変性症などの一部の難病においては人体への臨床試験が実施され視力が回復した症例もある。日本でも一部の大学で動物研究が行われている[5]。一方、こういった行為に対して「胎児売買に繋がる」として、反対する団体もある。アメリカでは中絶胎児の組織の利用については住民投票が行われた州もあり[5]、推進する州と禁止する州にわかれている。バイオメーカーが集まるカリフォルニア州では研究に州の予算が投入されている[5]。このような研究についてドイツでは明確に禁止している[5]。日本では「(ヒト幹細胞を用いた臨床研究の在り方に関する専門委員会」が立ちあげられ議論が進められているが[5]、3年間-20回を超す会合を行っても堂々巡りの議論を繰り返すだけで、先進国で日本だけが2005年現在で「認可するか禁止するか」の結論が出ていない[5]。そのため日本国内で唯一研究をしていた大阪医療センターでも[5]、中絶胎児から採取した細胞の培養の提供を中止してしまい[5]、さらに先進国に遅れる事態となっている[5]。中国では法規制が殆ど無いために、既に脊髄損傷やALSなどへ使用がビジネスとして成功しており[5]、世界中から患者が殺到している。中国で実施されている治療の効果に対しては意見が分かれている[5]。
中絶に至る人の中には、妊娠したものの社会的なバックアップを得られず、子供を育てる自信を失って中絶に至るケースが多い。その他女性の状況や妊娠経緯などの様々な事情により、子供を育てられないもしくは育てるのが現実的でない場合に、子供の生命と利益と福祉を守るための制度として特別養子縁組制度がある。この制度は海外では一般的であり、例えばアメリカでは実施件数は年間12万件を超え[6]、アップルコンピューターを創業したスティーブ・ジョブズや映画監督のマイケル・ベイなど養子出身の有名人も多い[7]。日本では宮城県石巻市の菊田昇医師が中絶を希望してきた女性に出産を奨励し、子供のいない夫婦に斡旋していたことをきっかけに養子縁組の法的枠組みが整備され、1987年に法律が制定され、現在では養子縁組支援団体も多数存在し、経緯や障害の有無を問わず多数の養子縁組が実施されている。費用は無償であり、出産後の一定期間は意思が変わった場合は縁組を取り止めることもできる[8]。支援団体の中には出産費用の一部援助(なお日本では出産後に出産育児一時金が産んだ子供1人につき42万円が戻ってくるほか、出産時にお金が用意できなくても出産一時金直接支払制度や自治体の入院助産制度を利用すれば、産む時に費用が直接病院に支払われる)や住む場所がない女性のために住まいを提供する団体もある。日本における縁組は支援団体や児童相談所が中心となって行うことが多く、医療機関であっせんを行っているのは一部の医師会や産婦人科医のみであったが、2013年9月にあんしん母と子の産婦人科連絡協議会が設置されるなど特別養子縁組の担い手としての医療機関の存在感も増している。同協議会は、14道府県の計20の産婦人科病院や医師が参加し、連携して特別養子縁組に取り組むネットワークである[9]。日本ではまだ特別養子縁組制度の認知度が低いため、認知度を高めるために日本財団が4月4日を養子の日と制定して毎年養子縁組への理解と深めてもらう周知啓発イベントを行っているほか、「養子縁組推進法」の制定へ向けた政策提言などを行っている[10]。
他の中絶や新生児殺害をなくす動きには、こうのとりのゆりかご(通称赤ちゃんポスト)の設置が挙げられる。これは様々な事情のために育てることのできない新生児を匿名で引き取り特別養子縁組を行うための設備であり、日本では熊本県熊本市の医療法人聖粒会が経営する慈恵病院が運用している。この設置に当たってはドイツにおける同様の施設であるベビークラッペが参考にされた[11]。2006年12月15日、慈恵病院は設置申請を熊本市に提出。2007年4月8日に熊本市から設置の許可を受け、2007年5月10日から運用を開始し、同時に慈恵病院は予期せぬ妊娠や赤ちゃんの将来のことを相談する窓口「SOS赤ちゃんとお母さんの妊娠相談」の運用を開始した。2014年に行われた同病院の医師である蓮田太二理事長による講演によると平成19年から平成25年11月までの同病院が相談を受けた事例やゆりかごの使用者のうち、養子縁組に至った事例や自分で育てることに決めたケースがともに200件前後あり、累計で453人の赤ちゃんの命が中絶などから救われた[11]。
18歳までの子供を(自分の生活が安定するまでなどの)一時的に子供を育ててもらう制度に里親制度があり、里親制度に関する条例は多くの都道府県や自治体が制定をしており、希望すれば利用できる。
里親制度には18歳までの子どもを実親が引き取って家庭復帰できるまで家庭内で養育する養育里親、親の病気などの理由などで一定期間だけ家庭を離れなければならない子どもを数日~数年の範囲で預かって養育する短期里親、将来的に里子との養子縁組を希望する養子縁組里親、子どもの3親等以内の親族(祖父母、叔父、叔母など)が里親になる親族里親(この場合叔父叔母など扶養義務のない親族ならば里親手当も支給される)などがある[12]。また類似制度として自治体が短期間子どもを預かるショートステイがある。
中絶が制度化される以前は、民間によって中絶が行われていた。何度か堕胎禁止が進められたが、悪習がやむことはなく、中には看板を掲げて中絶を商売にする者すら出てきたため[13]、明治政府は1868年12月24日に、富国強兵などの理由もあり、産婆の売薬・堕胎を禁止する法令を公布[14]。1880年(明治13年)の旧刑法と1907年(明治40年)の現行刑法において「堕胎罪」を制定した。しかしその後も隠れて行なわれており[15]、大正末期には、大阪で医院と製薬会社と旅館が結託し大規模な堕胎手術を行なっていたとして摘発された[16]。
第二次世界大戦後、強姦被害に遭った日本人女性(引揚者)に堕胎手術や性病の治療を行った二日市保養所がある。当時堕胎は違法行為(堕胎罪)であったが、二日市保養所の医師と看護師は、朝鮮人やソ連兵、中国人等による度重なる強姦を受けた女性に、堕胎手術や性病の治療を行った。優生保護法の施行に伴い、全国の指定医師が中絶手術を行えるようになったため、1947年(昭和22年)秋頃に閉鎖した。
昭和23年、優生保護法が成立し、中絶が合法化された。優生保護法第14条には、
の中絶も認められていた。だが、これらの中には病気と遺伝との関係に対するあからさまな誤解や偏見に基づく項目も混じっており、また、「障害者であればこの世に生まれてこないよう抹殺すべきである」といった差別的な考えを助長する虞があるとの障害者団体からの反発が根強かったことから、法改正に伴って削除された。
1996年(平成8年)優生保護法は母体保護法として改正された。指定医が合法的に中絶手術を行っている。 母体保護法では下記2つを正当な中絶の理由として定めている。違反したものは堕胎罪に問われる。
母体保護法の第2条第2項には、人工妊娠中絶を行う時期の基準は、「胎児が、母体外において、生命を保続することのできない時期」と定められており、妊娠22週未満とされた。以前は昭和51年までは通常28週未満、昭和51年-平成2年は通常24週未満、昭和53年に「妊娠満23週以前」の表現へ修正、平成2年以降に未熟児の生存可能性に関する医療水準の向上を受け、通常22週未満と基準期間が短縮された。また、個々の事例での生存可能性については、母体保護法指定医師が医学的観点から客観的に判断を加味すべきことも、付記および保健医療局精神保健課長からの同日通知で示された。一般に中絶というと未婚若年者のイメージが強いが、妊娠者が中絶を実施する割合は10歳代と並んで40歳代が高くなっている。1975年頃には、10歳代の妊娠でも出産の割合が過半数なのに対し、40歳代では9割近くが中絶している[17]。ただし絶対数では、妊娠者自体の多さから20-30歳代が大半を占める。件数は厚生労働省の統計によれば、1955年に約117万件、1965年に約84万件、1980年に約60万件、1990年に約46万件、2000年に約34万件[18]、近年は減少しており2013年は約18万件である[19]。
韓国では、儒教的観点(女児ならば中絶する。などの性別判別)から禁止されている[要出典]。そのため、2009年10月に韓国の産婦人科医が違法手術を告発する会を結成し、韓国政府は中絶を通報するコールセンターを設置した。また大統領府の主宰する会議は出生率低下に対する対応策の一つとして堕胎を取り締まると発表した。政府の調査によると、毎日1000件の違法な中絶が行われており、違法な中絶は年間34万件とされている[20]。
中華人民共和国においてかつては儒教的価値観から人工妊娠中絶は事実上禁止されていたが、一人っ子政策の施行後は公的に認められている。これに伴い、跡継ぎの男児を希望する農村部を中心に、妊娠中の性別検査で女児と判明した胎児を中絶する事例が多発し、人口構成が偏る社会問題が起きている。一方、地下教会である家の教会のクリスチャン達は現行の中絶に抵抗している [21]。
モロッコでは、人工妊娠中絶はタブー視され違法行為でもあり、中絶した女性には2年以下の実刑を科している。オランダの女性権利団体はモロッコの法の制限を回避するために、領海外でモロッコ人女性の中絶を行う「妊娠中絶船」を運行した。安全な方法で中絶を施し、違法中絶による健康リスクから女性を救うことを目的とする船であるが、モロッコでは大きな抗議デモが起きた[22]。モロッコでは年間600-800件の違法中絶が行われているが、医学的に適切な方法で中絶されているのは財力のある200例程度の女性に限られるとされ、WHOの統計では不適切な中絶によって毎年平均78人の女性が死亡しているとされる[22]。
共産主義時代の1966年にチャウシェスク政権が人口増加を狙って人工妊娠中絶と離婚を禁止したが、「チャウシェスクの子供たち」や「マンホールチルドレン」と呼ばれる社会問題を引き起こす誘因となった。
カトリック教徒が大多数を占めるアイルランドでは中絶は「中絶禁止法」という法律により事実上禁止されていたが、医療上必要な中絶処置を受けられずに31歳の妊婦が死亡した事件をきっかけに議論が進み、2013年に母体の安全を脅かす危険がある場合は中絶を認めるとする法律が成立した[23]。
ドイツでは刑法で原則的に中絶は禁止されているが[24] 、妊娠葛藤相談所の相談を受けその後一定期間を経た者についてのみ認められている[24]。ドイツには出産に関して他国では見られない法律があり、例えば子供を育てられない女性のために養子縁組が公的制度として定められているところは諸外国と同様だが、それ以外の選択肢として秘密出産(匿名出産)の規定があることである[24] 。これは妊婦が自分の身元を明らかにせずに行う出産であり、母親は自分の仮の名前を作成する。また子供の名前を希望することもできる。出産後に母親は匿名をやめることもでき、養父母への養子縁組が行われる生後約2か月目までならば考え直した場合は産んだ子供を引き取ることができる[24] 。それ以外にはベビークラッペと呼ばれる、いわゆる赤ちゃんポストの設置が挙げられる。現行の形のものは2000年に設置が始まり、現在では設置数はドイツ国内に100か所を超える。
フランスでは中絶は合法であり[25]、女性の権利とされている[25]。カトリック教会や中絶反対派は中絶反対を唱えている[25]。
ピューリタンの多いアメリカでは、堕胎はタブーであり、1900年まではケンタッキー州を除くすべての州で堕胎禁止法が施行されていた(実際には非合法に行われ、その危険性から年間1万5千人程度の女性が死亡していたとされる)[26]。 1973年、連邦最高裁のRoe v. Wade判決で中絶が合法化された。一方でキリスト教系宗教右派の活動家による根強い抵抗があり、妊娠中絶を行う医師を射殺したり[27]、病院に異臭物を投げ込んだり放火したり爆破するテロなども多発し[27]、殆どの病院で爆発物専門スタッフが雇用され郵便物の開封は慎重に行うことなどを強いられている[27]。医師の住所や電話番号、自動車ナンバーを記載した誹謗中傷ビラが配布されたり[27]、医師の家族や子供にまで脅迫され[27]、結果的に病院閉鎖に至るケースもある。そのため中絶を実施している施設数は減少傾向にあり、中絶を望む女性が中絶可能な環境にアクセスし難くなっているとされる。2013年3月26日、ノースダコタ州では、ジャック・ダルリンプル(英語版)知事が、中絶禁止法に署名、成立した。この新しい法律は、強姦や近親相姦による妊娠や、母体の健康に危険がある場合、胎児異常により結果的に胎児を失う恐れがある場合でも中絶を認めないとしており、アメリカで最も厳しい内容とされる[28]。
1988年までは、中絶する場合に中絶手術委員会の承認を得ることが必要だった[29]。しかし1988年、カナダ最高裁はその中絶関連法案を、女性のプライバシー侵害として法案無効の判断を下した[29]。これにより人工妊娠中絶が、妊婦の裁量で実施できるようになった[29]。1989年春、元恋人の中絶を止めさせようとして、男性側が「胎児にも人権がある」として中絶差し止め裁判を起こした。ケベック州の裁判所は男性側(父親)の訴えを認め「胎児は人であり、ケベック州法に基づく人権がある」として、中絶差し止め判断を示した[29]。しかし女性側(母親)が上告したカナダ最高裁で判決が覆った[29]。1989年8月8日、カナダ最高裁は男性側の訴えを却下し、女性の自由意志としての中絶を認めた[30][29]。この判例によって、女性の中絶の権利がより強く主張されることになることが予想された[29]。
ブラジルでは現在、妊娠8週以内のレイプ被害者と命に危険のある母親、無脳症胎児のみに中絶が認められている[31]。人工妊娠中絶には殺人罪が適用される。2000年から2008年までの間に、中絶の犯罪で130人の女性が起訴された。カトリック教会の影響が強い[32]。2013年には1523件の合法的な人工妊娠中絶手術が実施された一方、80万人の女性が違法な中絶処置を受け、19万6000人が不適切な処置のために追加治療が必要になったとされる[33]。2013年連邦医師審議会は妊娠12週までなら人工妊娠中絶を女性が選択できるようにすべきという声明を発表し、上院議員で構成する刑法改正特別委員会で審議されているが、医師や政治家の間でも意見が分かれており反対意見も多い[33]。一方、シングルマザーを集めて違法な養子縁組を結び、子供の国際的な人身売買を行っていた孤児院が摘発されるなどもしている[34]。
カトリック教徒の多いエルサルバドルでは、人工妊娠中絶は固く禁じられており、違反すると禁錮50年という厳しい罰則がある[35]。2013年5月29日、母子ともに病に冒され(母が全身性エリテマトーデス、子が無脳症)、子を生んでも、子は出産直後に死亡する可能性が高いと診断された女性が裁判所に中絶、および中絶を行った医師の刑事免責などの特別許可を求めていたが、裁判所はこの要請を不許可とし、中絶は認められないとした。この件では、エルサルバドルの閣僚も、中絶を許可するよう裁判所に要請していたが、裁判所は中絶厳禁の姿勢を変えなかった[36]。この女性は2013年6月3日に女児を帝王切開で出産、女児は数時間後に死亡した。母体は健康である[37]。
カトリック教徒が多い関係で母体に生命の危険がない限り中絶は認められない。2015年には体重34kgの10歳の女児が義父にレイプされて妊娠したケースがあり、中絶を認めない政府と母体への影響を訴えるNGO団体等の間で議論を呼んだが[38]、中絶は認められなかた。国内の中絶に関する論争の影響を避けるために女児はTVが見れない施設に長期収容され、2015年8月に帝王切開で出産した[39]。
キリスト教は、初代教会から一貫して中絶を殺人とみなし非難している[40][41]。ディダケーは、「中絶、殺害によって、子を殺してはならない」と述べる。バルナバの手紙も「堕胎によって子供を殺してはいけない、また生れた子供を殺してはいけない」[42]と述べ、中絶が殺人であると表明している[40]。アレクサンドリアのクレメンスは、胎内の子どもを人間とみなした[40]。テルトゥリアヌスは、ルカによる福音書1:41、46節、エレミヤ書1:5から、胎児が人間であることを証明し、未形成の胎児でも生きた存在として認めるべきだとした[40]。シリアの神学者エフライムは中絶の罪を犯した者に死刑を宣告した。314年のアンカラ会議は、形成された胎児と未形成の胎児と区別をしないと決定した。カイサリアのバシレイオスは、中絶した女は殺人の罪に問われなければならないとし、また胎児の発達段階に勝手に区別を設けて、妊娠初期などの段階に応じて中絶を認めるという中絶観は、キリストの愛と矛盾するとし、形成胎児と未形成の胎児を区別する議論を退けた[40]。ただし、歴史的にはキリスト教圏でも、教会法が中絶に厳しくなったのは近世から近代にかけてであり、世俗的には中絶もひそかに行われていた。動機としては不道徳な性交を隠すため、自分の財産を贈与・相続させないため、生活のため、性的魅力の維持のため、母体の健康の保護のためなどであったとされる[40]。これら中絶を行った者に対するキリスト教会の対応として、カトリック教会では破門になり[43]、プロテスタントでは戒規の対象となる。教派を超えた協力の動きとしては2009年11月、正教会、カトリック教会、福音派の指導者がアメリカ合衆国でマンハッタン宣言を発表し、人間の生命の神聖、結婚の尊厳、良心と信仰の自由を守り、信者に対してこれを圧迫する勢力を斥けることを求めている[44]。
カトリック教会は、1869年のピウス9世の勅書 Apostolicae Sedis は中絶を例外なく殺人と見なしている。これは胎児は受精後直ちに〈人間になる〉存在であるとの見解を示したものであり、ローマ・カトリック教会は公式に他の主張を退けている。20世紀にはこの見解が公教会の教える所のものとなり、医療現場における中絶従事者の破門処分が教会法に明記されている。さらに21世紀に連なる教会の立場を示したのは1965年の第2バチカン公会議であり、ここでは生命をその胚胎から尊重する意味で中絶は罪であるとされ (Gaudium et Spes)、中絶を禁ずる根拠が姦淫の罪の隠蔽だけではなく生命の尊重へと深化した。また1968年にはパウロ6世が回勅『フマーネ・ヴィテ』(Humane Vitae) で同様に生命の尊重と人工的な産児制限への反対を表明した。これら以降の中絶の議論においては、胎児が中絶の時点で〈人間であるか否か〉という主張は退けられ、1970年代から21世紀まで続く生存権を背景にする反中絶の立場、すなわち胎児は受胎(受精)の瞬間から〈生命〉であるためその生存する権利を侵すことはできない、仮に様々な事情で親が育てならない場合は養子縁組をすることで中絶はせず子供も生存できるとする立場を教会はとっており、これを受けて今日では多くのプロライフ団体が中絶の廃止に向けて活動している[45]。そして、カトリック系の大学である上智大学において、1991年4月にプロライフの立場から国際生命尊重会議が実施され1991年4月27日に胎児の人権宣言が宣言された[46]。生殖と無関係な性交は常に断罪されてきた。ただし、妊娠初期の中絶についてはカトリック教会内ではかつて議論が存在した[45]。それは5世紀のアウグスティヌス、中世の神学者トマス・アクィナス、ヴィエンヌ公会議にあった議論である[45]。しかし、今日のローマ・カトリック教会においてこれらの主張は退けられている。1588年にローマの風紀の悪化を重く見たシクストゥス5世により中絶や避妊を殺人の罪に相当する「破門」に処すとの勅書 (Effraenatam) が発せられるが、3年後の1591年にグレゴリウス14世によって緩和された。この時に「殺人および魂を宿した胎児が関わっていない件については、教会法および市民法よりも厳しい罰は課さない」旨の勅書 (Sedes Apostolica) が発せられ、これは1869年まで効力をもった。17世紀においても胎児が受胎から期間を経て〈人間になる〉との見解を支持する立場があったが、教会は姦淫の罪を隠蔽するものとしての中絶には厳しい態度で臨み、インノケンティウス11世はたとえ妊娠した少女がこれを咎めた両親による殺害に直面したとしても中絶は容認されないとしている[45]。
プロテスタントはジャン・カルヴァンやマルティン・ルター以来、初代教会と同様に人工妊娠中絶を殺人の罪と見なしてきた。1960年代の後半以降には中絶を容認するプロチョイス(選択派)の立場もあり、その見解を反映して様々な運動団体が組織されている[47][48]。自由主義神学やフェミニスト神学はプロチョイスの立場をとるとされる[49]。一方、保守的なプロテスタントは中絶に強く反対しており、その立場はプロライフ(生命尊重)と呼ばれ、日本にはプロライフ団体の小さないのちを守る会などがある[50]。また、20世紀後半のアメリカ合衆国における人工妊娠中絶の合法化を巡る議論では福音主義者・根本主義者などを中心にした保守的キリスト教の立場が、この論点を主要な課題として掲げ、プロライフ(生命尊重)を主張している [51]。
イスラム教では中絶は母体を救うという目的以外はハラーム(禁止)であると記述されている。また一部の宗派においては胎児が受精120日以内では入魂していないので道義的には悪であることには変わりないが、宗教法で罰せられるハラーム(禁止)ではないとの立場を取ると記述されている。[2] [47]。
中絶は仏教徒において最も重要な戒律である不殺生戒に触れるため、伝統的な仏教では中絶に反対している[52]。これの根拠は仏教宗派殆どすべての系列で受け入れられている上座部の経典において、中絶に僧が関与した7つの案件に関して全て例外なく、釈迦はサンガからその僧侶を追放するべしとの結論をだしたとの記述が存在するからである[52]。さらに詳しく述べれば、生命の始まりは性行為、女性の生理、輪廻の魂の入魂が合致した時に成立するとされる。この文面から、受精し胚になった段階で生命とみなし、それを破壊することは殺生であるとの考え方が一般的である[52]。
ヒンズー教の主要経典では、中絶に関する直接の記述が存在する。中絶は、親や僧を殺すに当たる大罪であるや、中絶を行った女性はカーストを喪失するなど、中絶がヒンズー教の不殺生の重大な違反であるという立場を明確にしている[53]。
ユダヤ教は民族が経験した苦難の歴史から子供、および子孫繁栄に大きな価値をおく宗教となっているものの、胎児は完全な人間であるとはみなさないので妊娠初期の中絶には一定の理解を示す、妊娠中期以降は反対との立場をとる[54]。中絶を女性の選択肢として認める立場は主に、アメリカなどの改革派のユダヤ教徒の立場である[要出典]。
聖典アヴェスターの『ウィーデーウ・ダート』第十五章9-15では堕胎を行うこと、また家族が堕胎を行わせることを禁じている。妊娠した女性が相手の男性に妊娠を告げ、その後男性側が、老婆(流産をもたらす薬効に通じた人物)に堕胎させてもらえ、と女性に言い、女性が「老婆」に依頼し、堕胎が完了したとする。この場合、女性、男性、施術を行った人物は三人とも等しく罪をおかしたことになるとされる。たとえ妊娠させた相手が未婚だとしても男性側は子供が生まれるまで世話しなければならない[55]。
今後出生前診断が一般化した場合、先天的な異常を持つ児を中絶することが「生命の選択」にあたるのではないかという論議がある(障害者#日本参照)。また、不妊治療の副作用として増加している多胎妊娠において、一部の胎児のみを人工的に中絶する「減数手術」をどう考えるかも論議の対象になっている。強姦被害や避妊具の破損などの不測事態が発生した際、緊急避妊薬(モーニング・アフター・ピル)やIUD(子宮内避妊具)の事後挿入等による緊急避妊が行われる場合がある。これらは受精卵の成立を以って生命の発生と考える立場の人々は、中絶の一種であると非難している[56]。ただしメーカー側は主な作用機序が排卵の抑制であり、受精卵阻害作用などは副次的な効果であると主張している。
大規模な多施設臨床研究の結果、予期せぬ妊娠によって引き起こされるうつ病などのメンタルヘルスへの影響は、出産した場合と中絶した場合で差がないことが判っており、中絶がメンタルヘルスに及ぼす影響は否定されている[57][58][59]。中絶が精神的負担になるかどうかは、女性の元々の背景(生活環境や社会的支援、中絶に対する思想)に影響される[60][61][62]。1990年、アメリカ心理学会(|American Psychological Association ; APA)は、中絶によって精神的に重度の悪影響が出ることは非常に稀であることを見出し、普段の日常生活にありふれたストレスに準じた影響であるとした[63]。アメリカ心理学学会は更に2008年に追加調査を実施し、初回の予期せぬ妊娠による中絶はメンタルヘルスへの悪影響が無いことを発表した[57][58]。これらの質の高い大規模臨床研究( high-quality studies)で、中絶とメンタルヘルスとの因果関係は一貫して否定されているが、質の悪い研究(poor-quality studies)では因果関係を認める傾向があることも判っている[64]。2011年12月、イギリスの国立メンタルヘルス共同センター(National Collaborating Centre for Mental Health)も、入手可能なエビデンスと系統的論文より同様に中絶はメンタルヘルスに悪影響を及ぼさない(abortion did not increase the risk of mental-health problems)とした[59][65]。これらの量の医学的知見があるにも関わらず、プロライフ派の人権擁護団体は「中絶とメンタルヘルス」の因果関係を主張し続けている[66]。度々討論されるこの問題は、もはや医学的問題ではなく、思想に基づいた政治的な論争の問題とされる[67][68]。プロライフ派の活動家の中には、中絶後にメンタルヘルスに悩む人がいるとして「中絶後症候群」(「PAS:post-abortion syndrome」)という概念を提唱して[69]広報活動を行ったが[67][70][71]、プロライフ派の中だけで使用されているに過ぎず、アメリカ心理学会とアメリカ精神医学会は実際の症候群としてその存在を認めず、ICD-10などにも病名として採用されていない。一部の医師やプロチョイスの活動家は、「中絶後症候群」は、政治的目的のためのプロライフの支持者の戦術であるとしている[66][72] [73][74]。1987年、アメリカのロナルド・レーガンが公衆衛生局長官に指名した、エリザベット・クープ(小児外科医でありプロテスタント福音派中絶反対論者であった)[75]は、中絶の精神衛生へのリスクに関する報告書を発表した。この発表はレーガンの補佐をしていた人物によって計画され、ロー対ウェイド事件の布石のため中絶反対のプロライフ運動を推進する目的だった[76] 。クープは乗り気では無かったが、最終的にレーガンの中絶反対政策の為に250以上の報告を議会で発表した。これらの論文は「クープレポート」と呼ばれたが、議会証言に前後してクープ自身が、その研究報告はあまりにも拙劣で、統計的な検討に耐えうる内容ではなかったと述べるなど、様々な問題を含んだ内容でだった[77]。クープは、中絶後にメンタルヘルス障害を発症する女性が実在することは認めたが、中絶がメンタルヘルス障害のリスクを増やすことを証明できなかった。クープは、個々の個人にとっては中絶は大きな問題となる事もあるが、公衆衛生上の統計的観点で見ると、そのリスクは非常に小さいと述べている[67][60][76][78]。議会の委員会は、中絶が精神衛生上有害だったという証拠を提出出来なかったクープを非難し、レーガンの試みは失敗に終わった。クープはレーガンへの手紙の中で、渡されたレポートは中絶のメンタルヘルスへの影響を証明するには不完全なものだったと主張している。
一方でメンタルヘルスへの影響を指摘する研究結果も世界に多数ある。アメリカ合衆国とフィンランドにおける調査によると、中絶した女性は心に問題を起こし、また中絶後に自殺率が増加するという調査結果がでている[79]。な精神的反応としては、罪悪感、羞恥心、不安感、無力感、深い悲しみや良心の呵責、泣くことを自制できない、怒り、苦々しい思い、恨みの念、不信感や裏切り感、自尊心の低下、赤ん坊や小さな子どもに関連する物事を避ける、中絶経験のフラッシュバック、悪夢にうなされる、睡眠が不規則になる、憂うつ感、性的機能不全、食生活の乱れ自虐的行為、人間関係の破綻、自殺を考える、または自殺しようとする傾向などがある[80]。特に10代の場合は影響が大きくなり、自己非難、うつ、社会逃避、引きこもりなどの行動に走ることがある。中絶した女性の手術後8週目の調査によると多くが罪の意識を表し、44%が精神異常を訴え、36%が不眠症にかかっており、31%が中絶した事を後悔し、11%が主治医から向精神薬を処方されている[81]。カナダの2つの州における調査では、中絶を経験した女性の25%は精神科医に足を運んでおり、そうでない女性は3%だった[82]。また毎年中絶した日や、迎える事のなかった出産予定日が巡ってくる事によって突発的に精神的な危機が起こることがある[83]。また堕ろさないと別れるといった様な脅しを受け、異性を引き留めておきたいからという理由で中絶する場合があるが、この場合多くが中絶をしたことにより結局関係が破たんするという研究もある[84]。男性にも精神的な影響があり、人間関係の破綻、性的機能不全、自己嫌悪、危険な行動、時を越えて増す悲しみ、無力感に罪悪感、憂うつ感、怒りやすく暴力的になりやすいという傾向などがある[85]。
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