出典(authority):フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「2015/06/25 23:32:14」(JST)
「般若」のその他の用法については「般若 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 |
仏教 |
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基本教義 |
縁起 四諦 八正道 三法印 四法印 |
人物 |
釈迦 十大弟子 龍樹 |
信仰対象 |
仏の一覧 |
分類 |
原始仏教 部派仏教 大乗仏教 密教 |
宗派 |
仏教の宗派 |
地域別仏教 |
インド スリランカ ネパール チベット |
聖典 |
経蔵 律蔵 論蔵 |
聖地 |
八大聖地 |
歴史 |
原始 部派 上座部 大乗 |
ウィキポータル 仏教 |
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般若(はんにゃ、サンスクリット語: प्रज्ञा, prajñā,プラジュニャー; パーリ語: पञ्ञा, paJJaa,パンニャー、漢訳音写:斑若、鉢若、般羅若、鉢羅枳嬢など)は、一般には智慧(ちえ)といい、仏教におけるいろいろの修行の結果として得られた「さとり」の智慧をいう。ことに、大乗仏教が起こってからは、般若は大乗仏教の特質を示す意味で用いられ、分別的な「智」としての「若那」(jñāna, ジュニャーナ)と対照される形で、諸法の実相である空と相応する無分別の「慧」として強調されてきた。
同じ悟りの智慧をあらわす遍智(へんち、 परिज्ञा parijñā)と区別される。遍智とは文字通り「あまねく知る」ことで、四諦の道理を無漏(むろ)の智によって知ることである。この遍智を小乗のさとりを表すものとして、大乗の般若と区別するのも、般若を存在の当相をそのままに自覚する実践智と考えるからである。
この般若の意味は、識(しき、サンスクリット語: विज्ञान, Vijñāna,ヴィジュニャーナ;パーリ語: विञ्ञाण, viññāṇa)とも区別される。識とは、いわゆる知識であり、客観的に物の何であるかを分析して知る分析智である。このような知識を克服して、それを実践智に深め、物の真相に体達すること、そのような智をことに般若というのである。たとえば、「生活の智慧」というが生活の知識といわず、「科学の知識」といって科学の智慧といわないようなものである。
般若を諸法の実相を体得した実践智として、常に悟りへつづく実践の根底に働くものとみる時、この般若の智慧こそ、仏教のさとりの本質である「自利利他二利円満」を完成するものとして、「仏母」とよばれるものである。『大智度論』 (44) に次のように説明される。
般若とは秦に智慧という。一切のもろもろの智慧の中で、最も第一たり、無上、無比、無等なるものにして、さらに勝るものなし。
この意味で、般若は六波羅蜜中の般若波羅蜜(サンスクリット語: पारमिता, Pāramitā;パーリ語: पारमि, Pāramī prajJā)である。布施・持戒・忍辱・精進・禅定などの五波羅蜜の修行によって達せられるのが般若波羅蜜であり、般若波羅蜜の調御により五波羅蜜が達成される。
一般に般若は「智慧」と訳されるが、厳密には中国に翻訳される場合、それは「慧」と訳され、「智」とは区別されていた。
道倫(どうりん)の『瑜伽師地論記』 に「梵にいう般若とは、これに名けて慧となす。当に知るべし、第六度なり。梵にいう若那とは、これに名けて智となす。当に知るべし、第十度なり」とあって、般若を慧、闍那(若那、jJaana)を智と、それぞれ訳出して、その意味の区別を考えていたことがわかる。
このことは慧琳(えりん)の『音義』 に「般羅若、正しく鉢羅枳嬢(はっらきじょう)という。唐に慧といい、或は智慧という」といっている点からも明らかであり、般若は慧と訳され、十波羅蜜の第六波羅蜜、智は闍那で第十波羅蜜を、それぞれ示していた。
この慧と智の区別について、慧遠は『大乗義章』の中で、「智」を照見、「慧」を解了とし、「智」は一般に世間で真理といわれるものを知ること、「慧」は出世間的な最も高く勝れた第一義の事実を照見し、それに体達するものであるとする。
さらに『華厳経』の註釈である『華厳経探玄記』を書いた賢首(げんじゅ)大師法蔵(643年 - 712年)によれば、智を第十度、慧を第六度にあてて、この中の「智」は因果、順逆、染浄などの差別を決断する作用であるといって「智」を決断作用とし、「慧」は諸法の仮実、体性の有無などを照達することであるとして、それを疑心を断じ、しかも事物そのものを体験的に知ることであるとしている。
このように智 (jJaana) と慧 (prajJaa) を区別することは、仏教のインドにおける教えの中に、すでに説かれていたことでもあった。たとえば、仏教教学の基礎であるといわれているアビダルマでは「慧」 (prajJaa) を心の作用として、それは見られる対象を分別し、それが何であるかを決定し、疑心を断じて、そのものを本当に理解する心の働きであるとして、それを「簡択」(けんちゃく、簡はえらぶこと・択はきまりをつけること)の作用をもつ心のはたらきとする。この慧によって決断することを「智」 (jJaana) という。
この慧の働いてゆく姿を三段にわけて聞慧・思慧・修慧といい、その慧の生じ方によって聞慧・思慧・修慧という。前者は、まず聞き次に考えさらに実際に修行する三段で本当の智慧は完成するから、聞思修の慧という。後者は、慧を得る方法に区別があるので、聞所成慧 (Zrutamayii-prajJa)、思所成慧 (cintaamayii-prajJaa)、修所成慧 (bhaavanaamayii-prajJaa) といわれる。
このように、仏教が般若の智慧を真実の智慧として、それを悟りの実践智と説くことに注意が必要である。親鸞が「信心の智慧」「智慧の念仏」といったことの意味を考えるべきである。仏教の般若・智慧は、この意味で具体的生活の上に生きて働く智慧であり、信心の働いてゆく姿である。しかも、知識ではなく智慧であるから、自らの分別を離れ、自他対立や差別を超克したものである。
現実世界では、対話が独言的主張や、雑談や、説得になっているのは、知識の世界にとどまっているだけであり、却って対立を起こし深めている。本当の意味の対話は問題意識を同じくするもの同志がお互いに聞き合うことから始まる智慧の世界であり、そこにこそ本当の問題解決が得られると言えるだろう。
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