出典(authority):フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「2015/07/18 22:26:50」(JST)
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官僚制(かんりょうせい)は、比較的規模の大きい社会集団や組織における管理・支配のシステムである。一般に官僚制という場合は、「近代官僚制」のことを指す。
多くの政党・政治団体の他、私企業、労働組合、社会福祉団体、非政府組織 (NGO) などの民間団体にも見られるヒエラルキー(位階、階層)構造を持ったシステムである。基本的な特徴としては、以下の点が挙げられる。
官僚制についての本格的な研究は、ドイツの社会学者、マックス・ヴェーバーに始まる。ヴェーバーは、近代社会における特徴的な合理的支配システムとしての近代官僚制に着目し、その特質を詳細に分析した(上に記した官僚制の基本的な特徴もヴェーバーの定義に基づいている)。
近代官僚制は、前近代に見られる家父長制的な支配に基づく家産型官僚制(中世の家臣団や中国の科挙官僚などが典型的な例)とは異なり、組織を構成する人間の関係は、能率を重視する非人格的(非人間的ではない)な結びつきによって成り立っているとされる。つまり、血縁によるつながりや感情的な結びつきなどではなく、合理的な規則に基づいて体系的に配分された役割にしたがって人間の関係が形成されているということである。なお近代官僚制は、以下のような特質を備えていることがヴェーバーによって指摘されている。
ヴェーバーは、近代官僚制のもつ合理的機能を強調し、特に機能障害については論じておらず、官僚制は優れた機械のような技術的卓越性があると主張した。ただし、官僚制支配の浸透によって個人の自由が抑圧される可能性や、官僚組織の巨大化によって統制が困難になっていくといった、近代官僚制のマイナス面について予見している点は見落としてはならない。
以上の議論を補足しておこう。ヴェーバーは、『経済と社会』(Wirtschaft und Gesellschaft)の中で「官僚制的装置が、これまた、個々のケースに適合した処理を阻むような一定の障碍を生み出す可能性があるし、また事実生み出している…」(Weber, 1976: 570)と指摘し、そのような官僚制の問題を「新秩序ドイツの議会と政府」(ウェーバー, 2005:319-383)の論文において検討している。そこでは、官僚制に関して以下のような3つの問題が提起されている。
a. 官僚制化に対する個人主義的な活動の自由の確保
b. 専門知識をもつ職員の権力の増大,それに対する制限と有効な統制
c. 官僚制の限界(ウェーバー, 2005:330-331)
上記「a」は組織に対する個人の人格的な自由の問題であり、組織論では常に問題となる。「b」は「官僚支配」と官僚の恣意的な利害動機の問題である。「官僚支配」は「テクノクラシー」と同義である。マートンの「逆機能」でいえば「セクショナリズム」に該当し、ニスカネン(Niskanen, W.A.)の官僚制理論は、この問題に適用される。そして上記「c」をヴェーバーは最も重要と考えた。この問題は、今日の視点からすれば、「組織のイノベーション」の問題に該当する。ヴェーバーが指摘するように「官僚制組織」はイノベーションにおいて全く無力という限界がある。それを R.K.マートンのように「逆機能」と指摘することも可能だが、問題の本質を見失うかも知れない。“NASA”は最もイノベーティブな組織の一つだが、“NASA”のような巨大組織が「官僚制」の管理システムに接合されていなければ、一日たりとも事業運営の継続ができなくなることも事実である。またファースト・フード・チェーンの「マクドナルド」のマニュアルによる管理は官僚制的であり、その成功の理由の一つは徹底した官僚制的管理の活用である(村上, 2014:41)。マクドナルドは「イノベーション・プロセス自体を官僚制的に、工業的に、中央集権的に変え、その成果を慎重に組織全体に還元している(フィスマン & サリバン, 2013:136)。
ヴェーバーが詳しく言及しなかった近代官僚制のマイナス面については、ロバート・キング・マートン、アルヴィン・グールドナー、フィリップ・セルズニック、ハロルド・ラズウェルなどのアメリカの社会学者・政治学者たちの官僚制組織の詳細な研究によって明らかにされた。
なかでも、マートンによる「官僚制の逆機能」についての指摘は有名である。
これらは、一般に官僚主義と呼ばれているものである。例えば、先例がないからという理由で新しいことを回避しようとしたり、規則に示されていないから、上司に聞かなければわからないといったようなものから、書類を作り、保存すること自体が仕事と化してしまい、その書類が本当に必要であるかどうかは考慮されない(繁文縟礼)、自分たちの業務・専門以外のことやろうとせず、自分たちの領域に別の部署のものが関わってくるとそれを排除しようとする(セクショナリズム)、というような傾向を指し示している。
しかしながら、マートンのヴェーバー批判にも限界がある。なぜなら官僚制の「デメリット」(逆機能)を指摘することも、「メリット」(順機能)を指摘することも、「コインの表裏」である。「規則万能」が杓子定規だからと言って、「規則遵守」の要請が消失する訳ではない。例えば、臓器移植の場合の脳死判定の規則は厳格に遵守されねばならない。食品衛生法、建築基準法の諸規則もまた然りである。それらが状況に応じ、功利主義的に利害状況に左右され、解釈や適用が恣意的に変化し運用されたらどうだろうか、規則は規則であり、遵守される必要がある。「悪法」も「法」か、それとも「悪法」はもはや「法」ではないのか、むしろ組織において機能上の矛盾関係が内包されており、そのような矛盾関係をどのように組織論的に示すかがより重要である(村上, 2014: 92)。
また何が「逆機能」で何が「順機能」かの判断は恣意的にならざるを得ない。制定された規則が遵守されず、規則の解釈や適用が状況に応じて安易に変更されるなら、法の下での平等に反し、規則制定の意味は希薄化する。官僚制に関する「逆機能」の指摘には、ヴェーバーの法の支配としての官僚制理論の本質を見失うリスクがあるという意味でマートンの批判は皮相的である。
日本の政治学者・行政学者である辻清明は、明治時代以来の日本における官僚機構の特質を研究し、その構造的特質の一つとして「強圧抑制の循環」という見解を表明した。
彼は『新版・日本官僚制の研究』 (1969) にて、戦前において確立された日本の官僚は特権的なエリートによる構造的な支配、すなわち支配・服従の関係が組織の中核を成しており、さらに組織外の一般国民にまでその構造が拡大されている状況を指摘した。つまり、組織内部において部下が上司の命令に服従するのと同様に、日本社会では軍人・官僚への国民(臣民)の服従を強要する「官尊民卑」の権威主義的傾向を有していたとする説である。
さらに辻は、この社会的特質は戦後の改革の中でも根強く生き残り、政治的な民主化への阻害要因になっているともしている。この「強圧抑制の循環」という見解は、日本の官僚が政治家よりも大きな政策決定への影響力を有するという前提に立つものであり、政治学および行政学における官僚優位論の代表的研究と見做された[1]。
この他にも、イギリスの歴史学者・政治学者であるシリル・ノースコート・パーキンソン(英語版)による指摘もよく知られている。パーキンソンによる官僚組織の非合理性についての指摘は「パーキンソンの法則」[2]と呼ばれている。これは、実際にこなさなければならない仕事量に関係なく、官僚の数はどんどん増え続けていくというもので、官僚組織の肥大化の特質を示している(成長の法則)。もちろん官僚が増えれば、その分仕事がなければならないが、それは実際に必要ではない仕事を創造することでまかなわれる。つまり、無駄な仕事ばかりが増えていくということである(凡俗の法則)。
これらのことは、官僚自体が膨大なエネルギーを費やして官僚組織の維持に努めていること、そして、なによりも政治家が官僚に依存している状況において、官僚組織を統制するための制度としての「民主主義」が十分に整備されていなかったことの表れである。つまり、組織管理の体系として民主主義制度は官僚制に勝るものとして十分に確立されていないということ指し示しているのである。
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