出典(authority):フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「2015/12/08 23:50:20」(JST)
「墨」のその他の用法については「墨 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 |
墨(すみ)とは、菜種油やゴマ油の油煙や松煙から採取した煤を香料と膠で練り固めた物(固形墨)、またこれを硯で水とともに磨りおろしてつくった黒色の液体をいい、書画に用いる。
また墨を液状にしたものを墨汁(ぼくじゅう)または墨液と呼ぶ。 墨汁の原材料には化学的な合成物が使われている場合もある。化学的には墨汁の状態はアモルファス炭素の分散したコロイド溶液である。
古代中国の甲骨文に墨書や朱墨の跡が発見されており、殷の時代に発達した甲骨文字とときを同じくして使用されたと考えられる。文字以外には文身にも使用され、これはのちに罪人の刑罰の一方法となった。墨は漢代には丸めた形状に作られ墨丸と呼ばれた。
現存する日本最古の墨書は三重県嬉野町(現在は松阪市)貝蔵遺跡で出土した2世紀末の土器に記されていた「田」という文字であるとされている。
日本では『日本書紀』に中国の墨について記されているのが初出である。はじめて国内で墨が作られたのは奈良和束の松煙墨とされる。この松煙墨は「南都油煙墨」と呼ばれ、遣唐使として唐へ行った空海が筆とともにその製法を大同元年(806年)に日本へ持ち帰り、奈良の興福寺二諦坊で造ったのが始まりといわれる。この油煙墨の製造が盛んになったのは鎌倉時代である。江戸時代に入ると各地でも製造されるようになったが、古くから技術の高い奈良に多くの職人が集まり、その結果各地の墨の生産は衰えた。奈良では日本の伝統産業として今日まで受け継がれている。現在の墨の主要産地は奈良県産が9割のシェアを占めるが、三重県産も知られる。
製造後間もない新品の固形墨は水分の含有量が多く、膠の成分が強く出るために粘度が強く紙に書いた場合、芯(筆で書かれた部分)と滲みの区別がわかりにくい。年月が経って乾燥した墨は、膠の分解もすすむためにのびが良く、墨色に立体感が出て、筆の運びにしたがって芯や滲みなど墨色の変化が美しく出るとされる。こうした経年をした墨は「古墨」と呼んで、珍重される。墨が緻密に作られていれば、それだけ乾燥するまで長い年月がかかる。
固形墨は主な原料である煤の違いによって、松煙墨と油煙墨に分かれる。朱墨、青墨、紫墨、茶墨などの表現があるが、朱墨以外は基本的に黒色で、色調の傾向を示す言葉である。朱墨の原料は、鉱産物として天然に採掘される辰砂である。
松煙は燃焼温度にむらがあり、粒子の大きさが均一でないことから、重厚な黒味から青灰色に至るまで墨色に幅がある。青みがかった色のものは青墨(せいぼく)と呼ばれる。製法は、松の木片を燃焼させて煤を採取する。青墨には、煤自体が青く発色するもの以外に、藍などで着色するものもある。雨風に弱い。
油煙は、煤の粒子が細かく均一で、黒色に光沢と深味がある。製法は土器に、油を入れ灯芯をともし、土器の蓋についた煤を集めて作る。油は、植物性油は菜種が最適とされるが、他にゴマ油や大豆油、ツバキ、キリなどがある。鉱物性油は重油や軽油、灯油である。雨風に強い。
墨の製造で使われる膠は、動物の骨や皮、腱などから抽出した膠状物質。高級なものでは鹿、通常は牛や豚、羊、ウサギなど。安価なものでは魚などが使われ、魚の膠を使ったものは独特な臭気を持つ。それを補う目的で、化学的に合成された樹脂(接着剤と同様な成分)が代用されることもある。
固形墨においても墨液においても、年月が経てば膠の成分が変質し弱くなる。これを「膠が枯れる」という。作った当初は膠が強くて粘りがあり、紙に書いた場合、芯(筆で書かれた部分)と滲みの差が小さいが、年月を経ると膠が枯れ、滲みも増えて墨色の表現の自由度が広がる。水分が多いと書いた線の部分から滲みが大きく広がる。この状態を「墨が散る」という。長い年月を経て膠の枯れた固形墨を「古墨」といい、伸びやかな線質や立体感、無限な色の表現が可能になるため、特に淡墨の作品では不可欠であり価値がある為、高値で取引される。
膠は動物性蛋白質であるため極端な低温下では粘性が増しゲル化・ゼリー状になり、書作に適さない。そのため墨は一定以上の気温下で使用する。
墨を練る技術以外に、高級品では墨の形も美術工芸的に重要となる。墨型彫刻師が木型を製作し、多様な形態が珍重される。日本で墨型彫刻を専業で行なう工房は、2014年時点で奈良の中村雅峯(「型集」7代目)ただ一人[1][2][3]。
明治20年代、小学校教員をしていた田口精爾が冬場に冷たい水で墨をする生徒達を見て液体の墨を作る事を発起。東京職工学校(現・東京工業大学)で応用化学を学び、その後、墨汁を発明。1898年(明治31年)に「開明墨汁」と名付け商品化し販売。田口商会(現在の開明株式会社)を牛込区築土八幡(現在の新宿区)に創業した[1]。
墨汁には天然由来の煤ではなく工業的に作られたカーボン(炭素)を使っているものがある(このカーボンは、コピー機などで使われるトナーとほとんど同じ成分である場合もある)。また膠の代わりに化学的に合成された接着系の樹脂を使っているものがある。
膠を用いた墨液の場合、表装・裏打ちをする際には長時間乾かす必要があり、乾燥時間が短いと墨が溶ける。高濃度の墨液や膠が枯れた墨液はにじみが激しいため、にじみ防止スプレーも市販されている。自分で裏打ちする際には注意が必要である。
墨の製造で使われる膠は動物性のタンパク質であり、細菌が繁殖し腐敗する。それを防ぐために市販の墨液には防腐剤を添加する。
固形墨には防腐剤の成分に樟脳や香料が含まれる。ただし、磨った墨の液は保存がきかないので直ぐに使い切る必要がある。墨液など液体墨の防腐剤は時間がたてば弱くなるので製造後およそ2年程で腐るといわれている。腐った墨液は動物系の腐敗臭を放ち筆を傷めるので使うのは避ける。
防腐剤の多い製品は筆を傷める可能性があるため、高級な筆を使う場合は粗悪な墨液を使うことは避ける。また、容器内の墨液の腐敗防止のため一度容器から出した墨液は細菌に汚染されている為、戻さない。
日本製の墨液には粗悪な成分を含むことはほとんどないが、安物や輸入品には注意が必要である。品質の良い墨液は固形墨を磨ったものにも比較的近く、書家らにも愛好者が増えている。
硯で墨を磨った液に技法的にアレンジを加える消費者もいる。指の腹などで墨液をこする「磨墨」(まぼく)作業などで粒子の細かい墨色を試してみたり水の量や硬水・軟水の水の硬度、紙との相性、気温や湿度で墨色や墨の広がりなどが変わる。特に淡墨では差が出やすいので、ヘビーユーザーは好みの墨(磨墨液)を作るために各々研究する。その点は絵具のそれと大差ないといえる。
墨をたくさん使用する消費者には墨磨機という固形墨を磨る機械も市販されており、重宝される。
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