出典(authority):フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「2012/10/10 17:01:45」(JST)
博覧会(はくらんかい)は、物品や資料などを集めて一般公開する催しのこと。様々な物品を集めて展示する博覧会(国内博覧会)は、1798年、フランス革命の時期のパリで開催された。1849年までにパリで11回にわたり開催され、徐々に規模が大きくなっていった。同様の博覧会がベルギー、オランダなど各国でも開催されるようになると、1849年、フランスの首相が国際博覧会を提唱し、1851年に第1回国際博覧会がロンドンで開催されることになった。詳しくは『国際博覧会』を参照。以下において、日本における主な博覧会を歴史的に記述する。
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江戸時代の1757年(宝暦7年)、讃岐の平賀源内の提案、本草家田村藍水の主催で、江戸・湯島で薬品会が開催された。物産会は一般公開はされなかったが、全国から薬用になる動植物、鉱物を集めたもので、日本初の物産会であった。物産会はたびたび催され、1761年(宝暦11年)には湯島において源内主催の大規模な壬午の会が開かれた。
1867年(慶応3年)、第2回パリ万博に幕府および薩摩藩と佐賀藩から佐野常民らが参加し、出品した。また、水戸藩の徳川昭武、渋沢栄一らもパリに赴いた。1873年(明治6年)のウィーン万博には日本政府として初めて公式参加し、日本館を建設した。明治期の国際博覧会では日本の展示品が好評をもって迎えられ、日本ブーム(ジャポニスム)を広めた。
近代日本では新しい文明の成果や他国の文化を人々に伝える啓蒙的な役割を果たすことになった。1871年(明治4年)、5月九段下の西洋医学所薬草園にて行われた大学南校主催の物産会(当初博覧会の名で企画されたが直前に物産会に名称変更)や10月京都の西本願寺で開催された京都博覧会(京都博覧会社主催)が国内の博覧会最初期のものである。同博覧会は以後も京都御苑などを会場に行われた。東京では1877年(明治10年)に、上野公園で第1回内国勧業博覧会(政府主催)が開催された。内国勧業博覧会は以後、1881年(明治14年)上野、1890年(明治23年)上野、1895年(明治28年)京都、1903年(明治36年)大阪と5回が開催された。第5回の大阪での博覧会は初めて海外からの出品を許し、事実上、日本で初めての万国博覧会となった。[要出典][1]
上野公園では、その後も1907年(明治40年)に東京勧業博覧会、東京大正博覧会1914年(大正3年)、平和記念東京博覧会1922年(大正11年)と、東京府主催の大規模な博覧会が続いた。明治大正の博覧会場は、ほとんど東京か京都だったが、大阪・名古屋・仙台などでの開催例もある。
また、日本統治下に入った朝鮮と台湾でも、日本統治の成果を示すことを目的とした博覧会が開かれた。1915年(大正4年)に京城府(現在のソウル特別市)で開催された始政五年記念朝鮮物産共進会を始め、1929年(昭和4年)には同じく京城府で朝鮮博覧会、1935年(昭和10年)には台北で始政四十周年記念台湾博覧会が開催された。
昭和に入ると、日本で国際博覧会を開催しようとする機運が高まり、議会でも議論された。紀元2600年に当たる1940年(昭和15年)を期して日本で紀元2600年記念日本万国博覧会を開催することに決まった(1934年(昭和9年)に日本万国博覧協会創立)。また、東京オリンピックの同年開催も1936年(昭和11年)に決定し準備が進められた。しかし、日中戦争が激化したため、参加国の減少が見込まれたこと、及び軍部の反対により、1938年(昭和13年)に開催中止が決定した。
「人類の進歩と調和」をテーマに、1970年(昭和45年)、大阪府吹田市で開催された。77の国が参加したアジアで最初の国際博覧会であった。詳しくは『日本万国博覧会』を参照。
大阪万博以降の特別博覧会としては以下の3博覧会がある。『国際博覧会』も参照。
「自然の叡智」をメインテーマに、「地球大交流」をコンセプトに、2005年(平成17年)に愛知県長久手町(現:長久手市)、愛知県瀬戸市などで開催された。日本の万博史上最多の120を超える国々が参加した21世紀最初の国際博覧会であった。詳しくは『2005年日本国際博覧会』を参照。
第二次世界大戦の以降も各地で博覧会が開催されていたが、中でも特に成功を収め、地方博覧会ブームの先駆けとなったのは、1981年(昭和56年)に神戸で開催されたポートピア'81である。埋立地にインフラ整備を行い、博覧会を契機に跡地開発を進めるという発想は大阪万博に倣ったものである。大きな成功を収めて株式会社神戸市の面目躍如となった。その後、バブル景気や市制100周年事業と重なる1989年(平成元年)の前後数年間に、横浜博覧会など各地で地方博ブームが起こったが、バブル崩壊とともに沈静化し、東京の臨海部(台場地区)で行われる予定だった世界都市博覧会は中止された。これ以降も様々な博覧会は行われているが、「博覧会は必要なのか」という疑問の声も大きくなっていった。地方博ブームだった1988年(昭和63年)に開催された博覧会はほとんどが黒字だったが、札幌市などで開催された世界・食の祭典は運営の杜撰さが祟って90億円という大赤字を出した。
「Category:地方博覧会」も参照
旧・通商産業省による特定博覧会制度による博覧会のことである。現在、この制度は終了している。計12回開催。和歌山県は2度開催。詳しくは『JAPAN EXPO』を参照。
2000年(平成12年) - 2001年(平成13年)にインターネット博覧会(通称:インパク)が開催された。過去の博覧会とは異なり、インターネット上の仮想空間での展覧会である。森喜朗元・首相が提唱したIT戦略(e-Japan)の具体化の1つだったが、成果については批判的な意見が多い。
上述のように、これまで日本で開催されてきた博覧会の多くは、春~秋の時期に開催された。冬中心の開催例は今のところ皆無に近い。
屋外の展示や屋外で入場を待つ観客にとって寒さを感じさせない時期としたこと、春休みやゴールデンウィークおよび夏休みの時期などの春~秋の行楽シーズンを良いとして、開催したと思われる。
特にこれまでの全ての国際博覧会(万国博覧会)と主要な地方博覧会(「ポートピア'81」が好例)の、「3月開幕・9月閉幕」のスケジュールが広く認知され、そのイメージで捉える人も多い。小規模な地方博覧会の場合、「7月開幕・9月閉幕」のケースも多い。
なお、この時期での博覧会の開催については、甚だしく暑熱となる季節が含まれ、さらに、多くの博覧会会場は、その時期、輻射熱で気温以上に暑くなっているので、熱射病などになる恐れが高まり良くないという見方もある。しかし、多くの観客は、真夏の暑さの中の博覧会を快く思うようである。
観客は、多くのケースの場合、尻上がりに増えるケースが多いようである。「3月開幕・9月閉幕」のスケジュールの場合、3月~4月中旬は様子見なのか観客は少なく、4月下旬~5月に第一次の観客数増大を招き(この中に5月に修学旅行を行う学校の修学旅行生も含まれる)、6月~7月上旬は梅雨のためか減少し、7月中旬~8月中旬が最も観客の多い時期で、最後に閉幕直前の9月に駆け込み的に観客が増えるケースが多いようである。
展示内容は博覧会のテーマによるが、多くの場合、科学技術の成果を大衆に広く知らしめる内容や、出展企業、団体、国家政府のPRとなるような内容(例えば出展国の文化や風物を知らしめる)であることが多い。ただし、企業については、あからさまな宣伝は控えられる傾向にある。
しかし、多くの観客が博覧会に期待するものは、ある種の「お祭り」や「移動遊園地」的なものであることも多い。博覧会場に設置された遊具(観覧車や展望台など)に期待したり、科学技術の成果物ではロボット、宇宙開発、リニアモーターカーなど、特に(子供などにも)判り易くかつ派手なものに人気が集まる傾向がある。 また、観客で博覧会に多くを期待するのは、子供や中学生、高校生など10代の人が多く、20代以上の成人層で博覧会から何かを得ようという人は少ない傾向にある。
博覧会という形式は19世紀から20世紀において各国で大きな役割を果たしてきたが、情報化が進展し、様々なイベントや展覧会が日常的に開催されている現在、博覧会の意義が問われているといえる。
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