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優生学(ゆうせいがく、英: eugenics)は応用科学に分類される学問の一種で、一般に「生物の遺伝構造を改良する事で人類の進歩を促そうとする科学的社会改良運動」と定義される[2]。1883年(明治16年)にフランシス・ゴルトンが定義した造語である。医学者を中心とした優生学者は優生学(ユージェニクス)という発想が科学的であると考えていた。背景には著名な生物学者で進化論・自然選択説を発見したダーウィン、及び人間社会においても生物淘汰による進歩を促すべきとする社会ダーウィニズムの存在があった。
優生学は20世紀初頭に大きな支持を集めたが[3]、その最たるものが生物学者オイゲン・フィッシャーらの理論に従って行われたナチス政権による人種政策である[4]。他にナチス政権はオトマー・フライヘル・フォン・フェアシューアー(ドイツ語版)による双生児研究(双生児研究(ナチス))など数多くの優生学上の研究を行っている。
ナチスとの繋がりで研究や理論が具体化する一方、公での支持は次第に失われていった。ナチスの人種政策という蛮行が多くの倫理的問題を引き起こした事から、優生学は人権上の問題として取り上げられ次第にタブー化していった。イギリス、北欧、日本などで福祉政策の一環として取り入れられていた優生学的施策も20世紀末までに撤廃された。現在公的な制度として優生学を取り入れている国は、シンガポールを例外としてほぼなくなっている。
しかし近年の遺伝子研究の進歩は優生学者が説いた「生物の遺伝改良」が現実化できるという可能性を結果として示す事になった。遺伝改良が社会上有益かどうか、また仮に有益だとしても倫理上許されるのかどうかなど、優生学的な研究の是非が問い直されつつある。
生殖管理による人種改良という発想は、プラトンに遡ることができるが、1865年(慶応元年)のフランシス・ゴルトンの研究が直接の起源である。彼は従兄弟のチャールズ・ダーウィンが1859年(安政6年)に著した『種の起源』から影響を受けた。優生学はアレクサンダー・グラハム・ベルのような当時の有力者らによって支持された。
優生学の目的は様々であるが、「知的に優秀な人間を創造すること」、「社会的な人的資源を保護すること」、「人間の苦しみや健康上の問題を軽減すること」などが挙げられる。これらの目標を達成するために提示された手段には、一般的に産児制限・人種改良・遺伝子操作を含むものである。優生学に対しては、歴史的に疑似科学とする批判が向けられ続けてきた。それは人間のもつ様々な特性を脱主体化する可能性を含むものであり、強権的な国家による人種差別と人権侵害、ジェノサイドに影響を与えた。
1930年代、エルンスト・リューディン(ドイツ語版)が優生学的な言説をナチス・ドイツの人種政策に融合させる試みを開始し始めた。また当時は、ナチスドイツに限らず、アメリカや北欧諸国でも、同様な内容の政策、研究は盛んにかつ公然と進められていた。アメリカの優生学協会は、カーネギー、ロックフェラーなどの財閥系企業が資金援助を行っていた。政策、立法による行政レベルでも実施され、第二次世界大戦に入った後も続けられていた。
第二次世界大戦の終結以降、優生学はもっぱら、強制的な「民族衛生(英語版)」や「絶滅政策」などといったナチスによる蛮行と結びつけて考えられがちであった。しかしながら、戦後世界においても、先進各国では1990年代に至るまで、地方行政や国政のレベルにおいて、さまざまな優生学的施策が実施されてきた。日本において戦後半世紀にわたり実施されてきたハンセン病患者に対する強制隔離政策は、事例の一つである。
優生学は、人間が誕生以前よりその遺伝形質に規定された不平等性を本質とするという「人間不平等性論」を前提として構築されている。人間を「尊厳 Würde」においてではなく、「価値 Wert」の優劣において理解する思想を、その根底に有している。その意味では、異人種間の価値的優劣を主張する「人種主義・人種差別主義」と、同一民族内における価値的優劣を問題化する優生学は、その人間理解において思想的に通底する。
ゴルトンは1883年(明治16年)『人間の知性とその発達』の脚注において、初めて「優生学」という用語を使用している。
それは、ギリシャの「εuγενεσ」という語に類似しており、遺伝的な qualities(資質)を付与された種にとって有益という意味である。様々な関連する用語や「εuγενεια」といった語は、等しくヒトや動物、植物に対して応用されている。我々は、種の改良の科学を表現するに簡潔な用語をことのほか好むものであり、それらは決して賢明な交配という問題に限られたものではない。しかし、取り分け人類に関して言及するならば、その語はあらゆる作用について我々に気付かせることになる。それは、程度の差こそあれ、より環境に適合した人種や血統に対し、そうでない存在に優先して、より十分な機会を即座に与える作用である。「ユージェニクス」という語はそのような概念を余すことなく表現するものであり、それはより洗練された用語であり、少なくとも、私が以前試みに使ってみた「viriculture」という語よりは違和感がないであろう。
1904年(明治37年)、ゴルトンは「ユージェニクス」を次のように定義した。
人種の先天的な諸特質を改善する、あらゆる様々な影響に関する科学である、そこには究極的に優れた状態へ人間を発達させることも含まれる。[5]
優生政策は歴史的に次の2つのカテゴリーに分けられてきた。
積極的優生学は優れた形質を持つと思われた人間を増やすことである。典型的には複数の子供を持つ優れた素質を持つ両親を表彰したり、金銭的援助を与えるという手段を採っている。結婚相談のような比較的穏健な施策は、極早い時期から優生学的観念に連関を持っていた。
消極的優生学は劣った形質を持つ人間に生殖を思い留ませるものである。これは断種や人種差別、ジェノサイドにまで発展した。
消極的優生学は必ずしも強制力を伴わない。国家は不妊手術に同意した人々に経済的な報償を提供した。だが社会的圧力を伴ったこの報償が強制力となったとみなす論者も存在する。積極的優生学も強制力を伴うことがあった。健全な女性による人工中絶はナチス・ドイツにおいても非合法化されていた。
20世紀の間に多くの国々において様々な優生的な政策と計画が策定された。それには以下を含む。
これらの政策の殆どは後になって強制的・制限的・大量殺戮的というイメージが付され、今日、優生学的と見なされたり、または明確に優生学的とラベルを貼られる様々な政策を実際に施行する行政主体は殆ど存在しない。しかし、現在でも産婦人科学会などにより遺伝カウンセリングなどが実施され、リプロジェネティクスは国家の強制でない「リベラル優生学」ともされる。
人種改良は、少なくともプラトンまで遡ることが可能である。彼は、人間の生殖活動は国家によって管理されるべきであると考えた、次のように記している。
「最も優れた男性は、意図して最も優れた女を妻に娶ったに違いない。そしてその反対に、最も劣った男性についても同じことが言える」-プラトン『国家』
プラトンは選択法則に気付いて人々の心が傷つけられるのを防ぐために、偽りのくじ引きで(人為的)選択が行われるべきであると提案している。その他の古代の事例としては、虚弱な新生児を都市の外れに遺棄したスパルタの伝説的な慣行が上げられる。このスパルタの事例については、のちにエルンスト・ヘッケルも参照している[7]。
1860年代から1870年代にかけて、フランシス・ゴルトンは従兄弟のチャールズ・ダーウィンの『種の起源』におけるヒトと動物の進化に関する新たな理論に影響を受けて、進化論を独自に解釈した[8]。ゴルトンは“自然選択のメカニズムはいかにして人間の文明によって潜在的に妨げられているか”という文脈において、ダーウィンの研究を解釈し、「多くの人間社会は経済的に恵まれない人々と弱者を保護に努めてきた。それゆえにそれらの社会は、弱者をこの世から廃絶するはずの自然選択と齟齬を来してきた」と論じた。
ゴルトンは、これらの社会政策を変えることによってのみ、社会は「月並みな状態への逆戻り[9]」(統計学において彼が最初に作った造語である)から救出することが可能であると考えた。この語は、現在では一般に「平均への回帰[10]」という用語に置き換わっている。ゴルトンは1865年(慶応元年)の論文「遺伝・才能・性格」において始めて自説を開陳し、1869年(明治2年)の『遺伝的天才』において、「天才」と「才能」は人間において遺伝するとした。また、「人間は動物に対して様々な形質を際立たせるために人為選択の手段を用いることが可能であり、そのようなモデルを人間に対して応用するなら、同様の結果を期待することが出来る」として、次のように述べた。
人間の本性の持つ才能はあらゆる有機体世界の形質と身体的特徴がそうであるのと全く同じ制約を受けて、遺伝によってもたらされる。こうした様々な制約にも拘らず、注意深い選択交配により、速く走ったり何か他の特別の才能を持つ犬や馬を永続的に繁殖させることが現実には簡単に行われている。従って、数世代に亘って賢明な結婚を重ねることで、人類についても高い才能を作り出しうることは疑いない。--ゴルトン『遺伝的天才』(1869年(明治2年))序文
ゴルトンは、社会は既に知的に劣った者の出生率が知性に優れた者に勝る状態(すなわちダーウィンの用語で言うところの「カタストロフィー」の状態)にあるとして、逆淘汰の状況に進んでいると主張した。ゴルトン自身は如何なる形での選別方法をも提示することはなかったが、もし人々が子孫を残すことの重大性を認識することで社会的規範が多少なりとも変わるならば、いつの日にか解決方法が見つかるであろうことを願った。
「優生学」に関するゴルトンの理論は、統計学的アプローチに基づくものである。これはアドルフ・ケトレーの「社会物理学」から強い影響を受けていた。しかしケトレーとは異なり、ゴルトンは(「平均的な人間」という用語を使わなかったものの)それらを凡庸な存在として否定視した。
ゴルトンと彼の統計学的方法を継承したカール・ピアソンは「優生学」に対して生物測定学的アプローチと呼んだものを発展させた。それは種の遺伝を記述するために新たな複雑な統計モデルを発達させたものであり、後年全く別の領域に応用されている。
しかし、グレゴール・メンデルの遺伝法則の再発見に伴って、優生学を唱道する2つの学派が現れることになった。その1つは統計学者から、他方は生物学者から構成された。統計学者たちは、生物学者は非常に粗雑な数学モデルを用いていると考え、一方、生物学者たちは、統計学者たちは生物学について殆ど知識を持たないと考えた。
優生学は最終的には一般的に差異的な出生率に影響を及ぼす研究手法を通して、望ましい形質を持った子供を作り出すために意図された人間の選択的生殖に関わっていくことになった。
優生学は後に「社会進化論」とは分岐する。両者は知性は遺伝すると主張しており、優生学者たちは新しい諸政策は実際に、より「優生学的な」状況へ現状を変える必要があると主張した。他方、社会ダーウィニスト達は社会そのものは、もし社会福祉政策が機能しなければ(例えば、貧困者は多産であるが、幼児死亡率も高いといった具合に)「逆淘汰」の問題を自然に食い止めることが出来たと主張した。
ロナルド・フィッシャーは優生学の熱心な推進者でもあり、1930年(昭和5年)に出版された『自然選択の遺伝学的理論』では、「集団数の増大が多様性を生み、それによって生存の機会の数も増大していく」と述べて後の集団遺伝学の基礎となった。さらにフィッシャーはこの考えはヒトに関しても適用できると述べ、「文明の衰退と凋落は、上流階級の生殖力の低下に帰することが出来る」とし、1911年(明治44年)のイギリスの国勢調査結果を基に、生殖力と社会階級とに逆関係があると述べた。そして子供の少ない家庭への補助を撤廃する一方、子沢山の家庭に対して父親の収入に比例した補助金を出すことを提案しているが、これに関してはフィッシャー自身が8人の子供の父親であり、その養育の負担が、彼の遺伝学・進化論的確信を深める原因の一つとする家族や友人達の証言もある。
フィッシャーの理論は、チャールズ・ゴールトン・ダーウィン(チャールズ・ダーウィンの孫)を初め、ウィリアム・ドナルド・ハミルトンの血縁選択説の形成にも影響を与えた。
また、1929年(昭和4年)から1934年(昭和9年)にかけて、優生学会はフィッシャーらを中心として、優生的観点から断種法(結果的には否決されたが)の制定を求めるキャンペーンを行っている。
集団遺伝学者には、J・B・S・ホールデン 、ハーマン・J・マラーなどがおり、「改革派優生学」として知られる。
近代において優生学的な考え方を提唱した最初の一人に電話を発明したことで知られるアレクサンダー・グラハム・ベルがいる。1881年(明治14年)にベルはマサチューセッツ州マーサズ・ヴィニヤード島における聾者の人口比率を調査した結果、聴覚障害は自然に遺伝すると結論付け、聴覚障害を遺伝しない結婚を奨励した[11]。その他多くの初期の優生学者と同様に、彼は優生学的意図から移民の制限を提起し、「ろうあ者の寄宿学校がろうあ者の産出の場となっていると考えられる」と警告した。
優生学運動は米国においても盛んであった。1896年(明治29年)のコネチカット州を皮切りに、多くの州で優生学に基づく結婚法が立法化された。それは癲癇患者や知的障害者の結婚を制限するものであった。また、W・E・B・デュボイスといったアフリカ系アメリカ人の思想家たちのなかでも、優生学の諸概念は支持された。彼らは優生学をアフリカ系アメリカ人の苦しみを緩和し、アフリカ系アメリカ人の地位向上する一つの方法として見なしたのである。
ゴルトンはイギリスで優生学教育協会を1907年(明治40年)に創設した。ゴルトンの死後、1912年(大正元年)には第一回国際優生学会議が開催された[12]。
1898年(明治31年)、米国の著名な生物学者であるチャールズ・B・ダベンポートはコールド・スプリング・ハーバー生物学研究所所長として植物と動物の進化に関する研究を開始した。
1904年(明治37年)、ダベンポートは実験的進化を目的とした研究所の創設のためにカーネギー財団から資金援助を受け、カーネギー研究所のなかに実験進化研究所を設立した。1910年(明治43年)に同研究所の付属施設として優生記録所(英語版)が開設され、ダベンポートとハリー・H・ラフリン(英語版)は優生学の普及を開始した。
翌1911年(明治44年)の著作『人種改良学』[13]はアメリカ優生学史上に残る仕事であり、大学教科書として使用された[14]。翌年ダベンポートは米国科学アカデミーの会員に選出された。
「優生記録所」は数年間に渡って膨大な量の家系図を収集し、不適者達の存在は経済的かつ社会的に劣悪な背景が遠因となっていると結論付けた。ダベンポートや心理学者のヘンリー・H・ゴダード(英語版)、自然保護論者のマディソン・グラント(英語版)などの優生学の信奉者達は、「不適格者」の問題への解決について様々なロビー活動の展開を開始した。ダベンポートは最優先事項として移民制限と断種に賛意を表した。ゴダードは自著『カリカック家』(1912年(大正元年))において人種隔離を主張し、グラントはこれら全てのアイデアに賛意を表し且つ絶滅計画も示唆していた。
ダベンポートは、1929年(昭和4年)の著作『ジャマイカにおける混血』[15]において、黒人と白人の間で生まれた混血の子供は生物学的にも文化的にも劣っているという統計学的な証拠が示されたとした。これは今日では科学的人種差別と見なされ、また当時もトーマス・ハント・モーガンなどから批判された。さらにダベンポートは、ナチス・ドイツの研究所とつながりがあり、ドイツの2つの学術誌(1935年(昭和10年)創刊)の編集委員や、1939年(昭和14年)には劣等人種の隔離政策にかかわったオットー・レーヒェ(ドイツ語版)に対する記念論文集に寄稿している[16]。
人種優生政策で有名なドイツよりも、アメリカの方が優生学的な政策を開始した時期が早く、また実施していた期間も長い。1904年(明治37年)にカーネギー財団のカーネギー研究所が、実験進化研究所を設立し、1910年(明治43年)に同研究所の付属施設として優生記録局を設置した。また1907年(明治40年)に、インディアナ州で世界初の断種法が制定される。アメリカの優生政策がむしろドイツに影響を与えたともいわれる。しかし、ナチスのようないわゆる「積極的駆逐」(=組織的殺害)は全くおこなっていない。断種法は全米30州で制定され、計12000件の断種手術が行われた。また絶対移民制限法(1924年(大正13年))は、「劣等人種の移民が増大することによるアメリカ社会の血の劣等化を防ぐ」ことを目的として制定された。この人種差別思想をもつ法は、公民権運動が盛んになった1965年(昭和40年)になってやっと改正された。米国においては、1930年代終わりまでに優生学運動の盛り上がりは下行期を迎え、政治的な支持を失ったにも関わらず、断種は1960年代にその実施数は最高点を迎えることになった。
1907年(明治40年)、インディアナ州で世界初の断種法が制定されて以降、1923年(大正12年)までに全米32州で制定された。 カリフォルニア州などでは梅毒患者、性犯罪者も対象となった[17]。また、連邦最高裁判所は1927年(昭和2年)、バージニア州が「不適格者」と見做された人間に断種を行うことが可能としたバック対ベル裁判(英語版))に関して裁決を下した。当時、米国において優生法のもと6万4千人が強制的に断種手術を受けさせられた。アメリカではその後も20世紀の大半の期間に渡って、知的障害者に対する断種が行われた[17]</ref>。
群を抜いて多数の強制的な断種手術が実施されたカリフォルニア州の断種手術に関して好意的な報告は生物学者ポール・ポパノウ(英語版)によって書かれ出版され、この報告はナチスドイツにも影響を与えた[18]。第二次世界大戦後、ニュルンベルク戦犯法廷に引き出されたナチスの行政官達は、米国の事例を引用することで、ナチス政権による大規模な断種計画(10年に満たない期間に45万人が手術を受けさせられた)は異常なことではなく、国際的には一般的であったとして、正当性を主張した。
1924年(大正13年)、アメリカで移民法(いわゆる排日移民法[19])が議会を通過した。このことは優生学者たちにとっては、東ヨーロッパと南ヨーロッパからやって来る「劣った血統」の脅威に関する議会の討論において専門職顧問として中心的な役割を果たす最初の機会であった。この新法は遺伝子プールを維持するための試みであり、既存の人種間の交配を禁ずる様々な法を強化したものであった。優生学的な考え方は米国の多くの州で導入されている近親姦を禁ずる様々な法律の背後に基礎を置くものであり、そしてそれは多くの白人と有色人種間の混血を禁ずる法律を正当化するために用いられた。
スティーヴン・ジェイ・グールドらは、米国において1920年代に成立し1960年(昭和35年)に大幅な改正を受けた移民制限が、自然の遺伝子プールから「劣った」人種を排除することを意図した優生学的目標によって動機付けられたものであったと主張している[20]。20世紀初頭、米国とカナダは、南欧と東欧から膨大な量の移民を受け入れるようになった。ロスロップ・スタッダード(英語版)やヘンリー・ラフリン(英語版)[21]の様な影響力を持った優生学者たちは、もしこの先移民が制限されないとするならば国の遺伝子プールを汚染することになる劣等人種が国中に満ち溢れることになるとする議論を立ち上げた。これらの議論によってカナダと米国は民族間の序列化を行う様々な法の立法化へと向かうことになった。
これらの法律では最上位にアングロ・サクソンとスカンジナビア人が位置付けられ、下に向かって事実上移民から完全に閉め出された日本人と中国人に至る格付けが行われた。
他方、移民制限政策は多量の外国人の流入に対する国の文化的健全さを維持する欲求に動機付けられたものであるとする見解もある[22]。
1926年(大正15年)にはハリー・クランプトン、ハリー・H・ローリン、マディソン・グラント、ヘンリー・フェアフィールド・オズボーンなどによって、アメリカ優生学協会が創設された[23]。1926年(大正15年)から1994年(平成6年)までの20世紀後半期の著名な会員には状況倫理の創始者のジョーゼフ・フレッチャー(英語版)、P&G財団のクラレンス・ギャンブル(英語版)博士、産児制限の提唱者で『共有地の悲劇』の著者のギャレット・ハーディンらが含まれる。
優生法は、ほとんど全ての非カトリックの西ヨーロッパ諸国によっても採用された。
一般的に優生学の概念に同意しない立場においても優生学的立法は依然として公益性を有すると主張している人々が存在した一例として、米国産児制限協会(英語版)創立者のマーガレット・サンガーは優生学に基づいて、産児制限(バース・コントロール)運動を展開した[25]。当時優生学は科学的かつ進歩的な思想であり、人間の生命の領域に、産児に関して科学的な知見を応用するものであると多くの人々から理解されていた。第二次世界大戦の強制絶滅収容所以前、優生学がジェノサイドに繋がる恐れがあるとする考え方は真剣には受け取られなかった。
ナチスドイツの最高指導者であったアドルフ・ヒトラーは優生学の信奉者であり、「ドイツ民族、即ちアーリア系を世界で最優秀な民族にするため」に、「支障となるユダヤ人」の絶滅を企てた(ホロコースト)以外に、長身・金髪碧眼の結婚適齢期の男女を集めて強制的に結婚させ、「ドイツ民族の品種改良」を試みた。民族衛生の旗の下に実施された様々な優生計画を通して、純粋ゲルマン民族を維持する試みが行われた。つまり、強制断種と強制結婚を両用したのが、ナチスドイツである。
1930年代、エルンスト・リューディン(ドイツ語版)が優生学的な言説をナチスドイツの人種政策に融合させる試みを開始し始めた。
ナチス政府による優生学や民族浄化への関心は、ホロコースト計画を通してユダヤ人・ロマ・同性愛者を含む数百万の「不適格」なヨーロッパ人を組織的・大量に殺戮する形となって現れた。そして、絶滅収容所において、殺害に使われた多数の装置や殺害の方法は、安楽死計画においてまず最初に開発されたものであった。ナチス政府の下で、優生学といわゆる「民族科学」のレトリックが強引に推し進められていったのと時を合わせ、ドイツ優生計画に伴うその範囲と強制は、第二次世界大戦後の優生学とナチスドイツの間の、消せない文化的連関を作り出していったのである。
日本において優生学的なイデオロギーが政策的に色濃く反映され、実効されたのはむしろ戦後の1948年(昭和23年)に成立した優生保護法の施行の後である。
日本社会党は福田昌子、加藤シヅエ、太田典礼を中心に1947年「優生保護考案」を第二回国会に上程したが、GHQとの折衝に時間をとられ、国会で十分な審議がなされないまま廃案となった。
優生保護法(1948年(昭和23年))は、優生学的見地からの強制断種が強化される原因になったことでも特筆される。元日本医師会会長でもある谷口弥三郎参議院議員を中心とした超党派による議員立法で提案された同法は、当時必須とされた人口抑制による民族の逆淘汰を回避することを提案理由として、子孫を残すことが不適切とされる者に対する強制性を増加させたものとなった。
同法は、ハンセン病を新たに断種対象としたほか、1952年(昭和27年)の改正の際に新たに遺伝性疾患以外に精神病、精神薄弱も断種対象とした。1952年(昭和27年)から1961年(昭和36年)の間にの医師申請の断種手術件数は1万以上行なわれた。またあわせて遺伝性疾患による中絶も年に数千件あった。これを消滅させるべく1997年(平成9年)に法改正がなされ、名称も母体保護法と変更された。
神道家の曽和義弌は、1940年(昭和15年)に「民モ昔ニ遡レバ神ノ御末デアル、ソレヲ断種スルト伝フコトハ、……徹頭徹尾猶太〔ユダヤ〕思想デアル」と発言して神国思想から反対した(1940年、昭和15年3月13日、衆議院)[32]。
ネガティヴな優生学とは区別して、シンガポールの首相リー・クアンユーは大卒女性の出産を推奨するなどの選別的な教育制度を実践するといった、限定的な「ポジティヴな優生学」を実施した。またシンガポール政府はあらゆる人種の平等を明確にし、明らかに他国とは全く違った優生学的見解を表明した。(リー・クアンユー#家族計画参照)
ヒンドゥー至上主義政党の中で最も過激として知られるシヴ・セーナーが、カースト制度最上位階層の多くを占めると言われるアーリア系について優生学的擁護を訴える政策をしばしば提言し、じわじわと支持を広げている。
ナチス・ドイツの経験の後、「民族衛生」と社会の成員として「不適」に関する多くの概念は政治家や科学界のメンバーによって公には放棄された。ナチ指導者に対するニュルンベルク裁判はナチス政権のジェノサイドの実施を世界に明らかにした。この裁判は結果として医療倫理の方針が制定され、それは1950年(昭和25年)のユネスコの『人種主義否定宣言』に結び付いていった。しかし多くの科学者の社会集団は数年間に渡って自己準拠的な類似の「人種的主張」を行い続けた。
第二次世界大戦の間に起こった様々な虐待に応える形で「世界人権宣言」が起草され、1948年(昭和23年)に国連に採択され「人種・国籍・宗教を問わずあらゆる人々が結婚と家庭を持つ権利を持っている」ことが定められた。ナチス・ドイツの悪用によって、過去において優生学が持て囃された多くの国々において、優生学は遍く批判の対象となっていった[33]。戦前の優生学者達の多くは後世において「秘密結社の優生学」と命名された仕事に従事した。戦後彼らは意図的に自分たちの優生学的考えを秘匿し、人類学者や生物学者・遺伝学者として高名を博すようになっていった。米国のロバート・ヤーキーズやドイツのオトマー・フライヘル・フォン・フェアシューアー(ドイツ語版)、また1950年代に結婚相談所を開設したカリフォルニアの優生学者のポール・ポッペナーなどが有名である[34]。
優生学に批判的な見方が主流となった後では、教科書や雑誌において優生学に関する記事は掲載されることはなくなった。たとえば『優生学季報』[35]は1969年(昭和44年)に『社会生物学』[36]と改名された。なお同誌は先行誌とは全く趣を変えて2005年(平成17年)まで刊行されている。
古典的優生学は今日では疑似科学とみなされ、これを積極的に研究する学者も見られない。優生学の事例として、競馬に使われる馬(サラブレッド)や、農業分野で行われる育種学があげられるが、あくまで限られた環境で、限られた遺伝子プールにおける表現型の、限られた情報を見ている結果にすぎず、これを人間の肉体や精神の改良へと飛躍させるのは根拠が薄いと考えられてきた。しかし、2000年代にヒトゲノムが解明された事によって、再び優生学的なヒト遺伝子の選抜が論じられるようになり、新たな優生学が誕生しつつある。例えば、ゲノム情報を用いた遺伝子診断サービスなどが商業化され、自己責任においてそれを利用するなど、個人レベルでの優生思想が、現実問題として現れてきた。今後は、この様な新しい優生学の、倫理問題について考えていく時代となっている。2000年(平成12年)に採択された国連ミレニアム宣言はこうしたヒトゲノムや生物工学の倫理的利用を要請し、同年に欧州連合が採択した欧州連合基本権憲章は特に人の選別を目的とした優生学的措置を禁止している[37]。また障害者権利条約も第10条に障害による差別のない生存権[38]、第15条に医学的実験の禁止、第17条に不可侵性の権利を掲げ[39]、障害による優生学的措置を否定している。
いまでは遺伝的な優劣という意味での優生学を制度的に法制化している国はないが、現在では着床前診断、及び出生前診断などにより、出生以前に先天的異常を発見できる技術が構築されている(→出生前診断)。出生前に胎児の障害や病気が確認された場合の選択的堕胎が、優生学的圧力によって行われるのか、あくまで親の自己決定で行われているのか、判断が難しい事例が増加している。優生学的な考え方は、公共の利益を追求した古典的優生学と、個人の権利を追求した自発的優生学という、新しい議論の段階に入ってきており、決して過去のものとなったわけではない。
遺伝子工学の発達や精子銀行の登場によって、優生学思想が別の面で復活するのではないかと危険視されている。(→デザイナーベビー参照)
例えば、カール・セーガンは、人類がヌクレオチドを自由に並べ替えられるようになり、望み通りの特質をもった人間を作り出せるようになるだろうが、そのような未来は不安なものだと述べている[40]。
ヒトゲノム計画[41]によって、ヒトの全ての塩基配列が明らかになり、重篤な遺伝病を惹き起こす遺伝子以外にも、病気と関連性のある遺伝子が発見された。しかしながら、関連性の詳細が明らかになるにつれ、単一の遺伝子が病気に及ぼす影響は部分的であり、一般的には生活環境等といった後天的要素の影響が、病気の発現に寄与していると判明してきた。また、ヒトゲノム計画によって明らかにされたのは、膨大な遺伝子の組み合わせであり、さらにそれまでは意味のない配列だと思われていたものが、ノンコーディングRNAとして、遺伝子制御に重要な役割を果たしている事が判明するなど、古典的な遺伝子と形質が1対1の対応で遺伝するイメージとは、かけ離れた仕組みになっている事である。
「優生学」という用語は多様な社会的文脈で用いられ、様々な論議を引き起こしてきた。それは多くの場合20世紀前半に大きな影響力を示した社会運動であり社会政策に関係して用いられてきた。歴史的そして広義の意味において、優生学は「人間の様々な遺伝的特性を改良」する研究としても認知されていた。時には「遺伝子プール」の改善といったより広義の人為的な活動を説明する場合に用いられることもある。現代のリプロジェネティクス(英語版)・予防的中絶・デザイナーベビーは、古代社会における幼児殺害と同様の形式として優生学として認識されている。
優生学の掲げる規範的な到達点(英語版)と、それが科学に基づいた人種主義(英語版)に結びついている事実によって、一般的に学究の世界では優生学と言う用語から一線を画すようになっており、優生学は疑似科学として認識されることもある。このことは遺伝学の発展に対しても同様である。しかし社会政策としての自由主義的な優生学(英語版)の提唱に対する支持的な意見は、かなりの数で顕在している。遺伝子工学への応用可能性についての最新の調査成果が発表されるにつれて、生命倫理学についての議論においては優生学の歴史を訓戒的な物語として引き合いに出す機会がますます増えつつあるその一方、「非強制的な優生学的プログラムでさえ本質において倫理にもとるものであるのか」という問いかけを行う倫理学者もいる。
優生学者たちは「人間の遺伝子プールの改善」に明らかに結びつく限定された方策を提唱している。「改良の対象を定義すること」や「何が役に立つかという判断を行うこと」は究極的には経験的な科学の観察の問題よりはむしろ文化的な意味での選択であり、優生学は多くの人々によって疑似科学であると見なされてきた。
優生学についての議論で最も中心的課題となったのは「何が有用な特性」で、「何が劣っているそれ」かといった「人間の遺伝子プールの改良」についての定義付けの問題であった。当然の如く、優生学についてのこの解釈は歴史的に「科学に基づいた人種主義」の色彩を帯びていた。初期の優生学は一般的に社会階級に強い相関があると見なされていた知能の因子に結び付けられた。多くの優生学者たちは人間の社会の改善に対する類推として動物の品種改良[42]から着想している。異人種間の婚姻(特に白人と有色人種について)は一般的に民族純化の文脈において避けるべきことと考えられてきた。当時、科学的見地からの支持を取り付けたその種の考え方は、今日の発展した「遺伝学」においてもなお議論を引き起こす課題として存続しているのである。
優生学はまた血友病、ハンチントン病のような遺伝病の根絶とも深いつながりを持ってきた。しかし、遺伝的欠陥のようなある種の要素をラベリングする様々な問題は今もって存在するのである。
但し『人類が絶滅する細菌に(例えば)知的障害者だけが耐えられたとしても、それは人類の絶滅と変わらない』と言う反論がネット上[要出典]にはあり、優生学的な考えを根底にした根強い排除思想が未だ存在する。
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