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レズビアンとは、恋愛的か性的に女性に惹かれる女性のこと。女性の同性愛のこと。
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「レズビアン用語」も参照
英語では一般的には lesbian (レズビアン)と呼ぶ。 この言葉の由来は#歴史節のとおりで、これに先立つ lesbianism の語は1870年から記録があるという[1]。
ほかにややカジュアルな呼称としては dyke (ダイク)などがあり、当事者たちも使うことがあるが、一般に俗語のニュアンスは場面や文脈に依存するもので、この言葉も場合によって蔑意の表現にもなり得るため、注意が必要である[2]。
関連概念として、英語: gay は日本語「ゲイ」とは異なり、性別を問わず、レズビアンをも指し得る言葉である。 同様の言葉には queer (クィア)などもある。詳細は各項目を参照のこと。
略称としては、日本では「ビアン」という言葉が当事者の周辺でよく使われる[3][4]。 これは「レズ」という呼称を嫌った当事者たちが90年代に使い始めた[5]もので、みずからのアイデンティティを積極的に表す言葉[3]であるとされる。 「レズ」の語に辛い記憶をもつ当事者たちの中には、この言葉が登場したことで“救われた”と感じた者も多かったという[6]。
一般には「レズ」という略称がよく聞かれるが、これは侮蔑的な場面で使われることが多く[3][7][8]、テレビ・週刊誌・スポーツ新聞などでは「ホモ」とともに軽蔑的な文脈で使われ、安易に笑いをとる材料にされたり[9]、さらには男性向けポルノグラフィ(俗に「レズ物」などと呼ばれるもの[10])にも用いられてきた言葉であることから[11]、不快に感じる当事者も多く[12]、一般に使うべきではないとされ[3][7]、各メディアではこの略称の使用は自粛している。
とはいえ当然ながら、自己表現というのは人それぞれであり、「レズ」を自称する当事者もいないわけではない。 とくに若い世代の間には「ビアンという言い方は古臭いし恥ずかしい」という感覚もあり[13]、当事者・非当事者ともに、なんらネガティブな意味合いを込めることなしに「レズ」という語を使うようになってきているともいう[14]。
女性同性愛の最も古い記録は、おおよそ紀元前625~570年頃、古代ギリシアのレスボス島に住んでいたサッポー(Sappho, 恋愛をテーマとした官能的な詩を残した女流詩人)とされている。レスボス島がレズビアンの、サッポーの名が「サフィズム」という女性同性愛を示す言葉の語源ともなっている。現代の学説では、サッポーが育んだ教え子である少女との友愛関係は、古代ギリシアにおける同性愛と同様のものとの提唱がなされている。また、レズビアンの関係については古代スパルタ人であるラケダイモン人の間においても一般的であった。プルタルコスは「淑女を性の対象とする女性の間においても、愛は尊重された」と記している。
古代中国史においてもレズビアンに関する詩や物語の記録が残されている。人類学者ライザ・ダルビーの研究によれば、平安時代の日本においてもレズビアンが社会的に受け入れられていたとされている。中世のアラビアにおいてはハーレムを構成する女性達の間での同性愛関係が記録されているが、ときにこれは弾圧された。一例を挙げると、当時の指導者ムーサ・アル・ハディは情交していた2人の少女に対し斬首刑を求刑している。
12世紀、Etienne de Fougeresは、当時のヨーロッパにおいて「まっとうな性」を歩もうとするレズビアン達のいかなる声をも拒絶する社会的な風潮を反映して、社交儀礼に関する自身の著書(Livre des manieres, 1170年頃)の中で「雄鶏のふりをする雌鳥」と、レズビアンを嘲笑している。
日本におけるレズビアンの歴史は男性の男色文化などと比べると未解明な部分が多いが、少なくとも江戸時代からは存在したとされる。当時は女装した若衆を買う女性が少なからずおり、葛飾北斎、鳥橋斎栄里、鈴木春信、歌川国麿と言った浮世絵師が女性同士の性交の春画を描いた。古川柳にも女性同士の恋愛を詠んだものがたくさんあった[15]。また女牢の中では日常的に同性愛が行われており、料理屋の裏で同性愛にふける女性たちもいた。大奥・遊女の間でもあったという。例えば大奥老女絵島が侍女の紅葉を寵愛したのが有名である[15]。こうした江戸期のレズビアンは近代のレズビアン文学に影響を与えたとされる[16]。
明治になって西欧のキリスト教文化や精神医学が流入してきたことによりレズビアンは否定されるが、女学校、工場、病院、妓樓、監獄など女性のみの集団の中では続いたとされる[15]。明治30年代の中村小時のように女性でありながら男装して妾を持ち豪遊した人物もいる[17]。20世紀に入ると日本の資本主義社会の発展による自由・退廃の文化と女性の権利向上により、文学上の表現などで復活し、田村俊子・吉屋信子・宮本百合子などがレズビアンを思わせる人物が登場する小説を著した。また現実世界でも、平塚らいてうと尾竹一枝、宮本百合子と湯浅芳子、吉屋信子と門馬千代といった著名人の女性同士の関係が登場していた。また1908年から1910年までの情死501件中女性同士は18件(0.04%)あり[15]、特に1911年に新潟県親不知海岸で起きた女学校卒業生同士の心中が報道された結果、それまで男色を中心とした男性中心の同性愛への注目から女性中心の同性愛へと認識が転換したとされる(詳しくはエス (文化)を参照のこと)。同時にこのころ同性愛を異常視する「変態性欲」の考え方が一般化し、レズビアニズムの変態カテゴリー化が進行した。これは1970年代まで続くことになる[16]。
その後1971年に日本初のレズビアンサークル「若草の会」が登場した。アパートで月1回の集会があり、1回に2・30人が集まったという。会員は5年間で延べ500人になり会誌も発行された。「若草の会」は15年間続き、分派して他のグループを作ったものもいた。また1976年発行の「すばらしい女たち」を皮切りに、1978年には「ザ・ダイク」や「ひかりぐるま」、1982年には「レズビアン通信」とミニコミ誌が次々と作られる。1987年には日本初のレズビアン事務所「れ組スタジオ・東京」が開設された。1988年に掛札悠子が日本で始めてマスコミにカムアウトし、1992年には公に出版された日本で始めてのレズビアン・ゲイの情報ガイド『ゲイの贈り物』が発売された。同年には東京国際レズビアン&ゲイ映画祭がスタートし、1994年には東京レズビアン・ゲイ・パレードが行われた[18]。
ヨーロッパではルネッサンスから存在し、アメリカでは19世紀後半に頂点に達した女性同士の「ロマンティックな友情」が存在した。未婚の女性同士の激しい友情をあらわしたが、19世紀中ごろから設立された女子大学により女性の経済的自立がなると女性同士の世帯が登場し、男性との結婚によって中断する必要がなくなったのである。保守的な富裕層や教育を受けられない貧困層とは対照的に、職に就くことが少なくなかった中産階級の女性は女性同士の愛が普通とされる社会で育った。東海岸では「ボストンマリッジ」と呼ばれ、ジェーン・アダムス、M・キャリー・トーマスと言った有名な女性運動家も女性同士で暮らした。もっとも性科学が登場したばかりの当時、自らをレズビアンと認識するものはいなかった[19]。
徐々に広まりつつあった性科学は第1次世界大戦が終わってからアメリカでも常識化し、「ロマンティックな友情」で済まされていた関係をレズビアンとして一般女性から切り離し、フェミニストも含めて「性倒錯」「男の心をもっている」「古い母権制社会への退行者」などと非難し始めた。この新見解は女性たちの間に大混乱をもたらしたが、これを機に自らを神や自然によって運命付けられたレズビアンとして認識し、コミュニティーを作り同性愛に対する刑罰に挑戦する女性も現れた[19]。
1920年代はフロイト理論の広まりによって自由な異性関係とバイセクシャルの試みが許された時代だった。小説にもレズビアンが登場し、ブロードウェイの芝居でも異性装が大流行した。各地にレズビアンコミュニティが登場し、特にニューヨークのハーレム、グリニッジ・ビレッジが有名だったが、バイセクシャルがはやっても混ざりけのないレズビアンは異常視された。性革命のもとより開放的になった異性愛が健康に不可欠だともてはやされる一方で、同性愛が貶められたのもこの時代である[19]。
1930年代になると大恐慌の影響で性の自由は中断される一方で、医学界も前説を流布し続けていた。自立した女性に対する圧力も高まり、生活が立ち行かなくなってホームレスになるレズビアンのカップルもいた。やむなく男性と結婚しバイセクシャルで妥協するレズビアンもいた。小説にもレズビアンを否定的に描くものが現れ、レズビアン描写に対する検閲も強まり、女子大学でもかつての「ロマンティックな友情」は見られなくなった。レズビアンにとっては孤独な時代だったが、それでもより多くの女性が自分をレズビアンだと認識し、サブカルチャーを発展させた[19]。
第2次世界大戦中はレズビアンを黙認した軍の女性分隊を始め、工場などさまざまな場所で女性だけの組織が誕生し、レズビアニズムの発展に寄与した。「ロマンティックな友情」の時代とは違って、すべての階層に開かれていた。1950年代に入ると戦争が終わって除隊させられたレズビアンが港町にコミュニティを作り、女性たちの間に広まった寛容さからサブカルチャーが発展した。さらに大都市へのレズビアンの移住が増加し、レズビアン・バーを増大させた。これは後にレズビアンの組織化につながる[19]。
しかし職場に戻り始めた男性を中心に保守的な意見もあり、医学界も同性愛に対する「治療」をビッグビジネスに仕立て上げた。マッカーシズムによる迫害も始まり、多くの同性愛者が公職を追われ、苦しい二重生活を強いられた。それでもサブカルチャーは激増し、初めてのレズビアン団体が現れたのもこのころであった。ただしレズビアンサブカルチャーは60年代を通して主流文化に屈しており、レズビアン団体の加入者も少なかった[19]。
しかし1960年代末期になると60年代のフェミニズムや公民権運動を経験した世代がゲイ革命を起こした。1969年のストーンウォールの反乱を契機に、マスコミや医学界、政界にも同性愛に同調する動きが生まれた。解放運動は驚くべき勢いで広まりゲイ男性と共同で反対する政治家と戦った。こうした一連の流れは1970年代においてレズビアン・フェミニストの登場を促した。レズビアンによる独立した平和で自由な社会を理想とする彼女たちは協同組合や職業訓練所の開設を目指し、独自の新聞や小説、音楽でレズビアンを賛美した。しかしあまりにも理想に走りすぎたため分裂対立を繰り返し、できたばかりのコミューンも長続きしなかった[19]。
1980年代に至ると性的に消極的だったレズビアンの性に関して大論争が起こる。レズビアンの性的解放を目指しての動きだったが、むしろ時代はゲイ男性の間にエイズが蔓延したため性に関しては保守的になった。コミュニティも70年代よりは穏健的かつ統一的なり、各民族ごとの小グループが生まれ多様化した。高齢者、肥満者、障害者のレズビアンの活動も活発化した。この結果、同性愛者の人権法が各地で成立した。また母親になるレズビアンが増え、ベビーブームが到来したのもこの時代である[19]。
※この項全般で記すフェミニズムとは、日本語においての語彙である「男性の女性びいき」とは異なり、同性愛を含めた女性の権利一般またはそれに関する運動のことを指す。詳細は該当項目を参照のこと。
19世紀後半、多くのレズビアンがその権利(フェミニズム)のために立ち上がった。「ボストンマリッジ(女性同士で築く家庭)」という語がその権利を主張する運動の上で、女性同士の家庭生活を示す言葉として多用された。1970年代~1980年代前半の第二次の運動では、北米や西欧でも新たに多くの賛同を得た。1970年代の終わりごろまでには、学術的な分野の一部でではあるがフェミニズム(ことに女性同性愛者の権利)として認められるようになった。昨今では不満の表現として、この1970年代の同性愛者の権利解放運動が挙げられている。
レズビアンのフェミニズムに関する指導書においては、男性優位社会や資本主義社会、植民地主義社会などが、性別の認識と実際の性別が入り混じることに与える影響が考察され、時としてこれらの社会制度がレズビアンの疎外や不満点のもっともたるものであると記述している。
また、エイドリアン・リッシュは自らのエッセイ「強制的異性愛とレズビアンのあり方」 (Compulsory Heterosexuality and Lesbian Existence) の中で、「“色欲的で金銭的で感情的な”女性との接し方」として異性愛を揶揄している。
他の主立った思想家、活動家としてはリタ・メイ・ブラウン(Rita Mae Brown)、Audre Lorde、Marilyn Frye、Mary Daly、Sheila Jeffreysが挙げられる。
女性間の同性愛における性行為は、異性間、男性間のそれと同様に多様である。女性同士の肉体関係にある者の中には、自身をレズビアン、倒錯愛などと認識していない者もいる。他のどのような対人関係、性的関係においても、その前後の流れ次第であることと同様である。
昨今の西側諸国における社会的、文化的価値観の変容や、新たな学術的見地からも、レズビアンとしての性が市民権を得るようになってきている。
2002年に行われた米国医療センターにおける保健調査報告が、2005年に「 性行動と特定保健指標:2002年15歳~44歳の米国人男女, Sexual Behavior and Selected Health Measures: Men and Women 15-44 Years of Age, United States, 2002」と題して発表された。その中で15歳~44歳の女性の4.4%が直近12ヶ月以内に他の女性との性的関係を持った、と記されている。また、同じく15歳~44歳の女性への「これまでに他の女性と何らかの性的な関係を持ったことがあるか」との問いに対し、11%が「ある」と答えている。レズビアンの性について書かれたこの調査内容は、女性の性の上での自立、移り変わる女性間の性、女性の性の悦びの再認識、ネガティブな性の固定観念の露呈など、様々な物議をかもした。
1990年代に入るとレズビアンの権利と地位向上を訴えるため、何十ものレズビアン・アベンジャーが組織された。今日ではオランダ、ベルギー、スペイン、ポルトガル、ノルウェー、スウェーデン、アイスランド、カナダ、南アフリカ共和国等で同性結婚が法制化されているが、まだまだ多くの国に受け入れられていないのが現状である。2004年、マサチューセッツ州は米国で初めて同性結婚を法制化した。
アイスランドの女性政治家、ヨハンナ・シグルザルドッティルは、私生活ではレズビアンで、2009年2月1日首相に就任し、同性愛者を公言した世界初の国家首脳になった。さらに、2010年6月27日に女性脚本家と結婚し、同性結婚をした世界初の国家首脳となった。
対照的にイギリスでは、かつて一度もレズビアンが違法であったことはなく、逆に男性の同性愛が1967年になって初めて合法化された。これはヴィクトリア女王が女性間の性交が可能とは思わず、1885年発布の刑法から女性の同性愛が漏れたためと言われている[誰によって?]。1921年、レズビアンを違法とするようフレデリック・マキステン(英語版) (Frederick Macquisten) 下院議員が提議したが、貴族院にて否決された。その決議の中で、当時の貴族院議長バーケンヘッド卿は、「女性が1000人いたとしても、そのうち999人はそのような悪習(同性愛)に手を染めるとは思えぬ」と断じた。1928年、レズビアンを題材とした小説、「寂しさの泉 (The Well of Loneliness)」が、公の場で卑猥な表現を行ったとして発売禁止となり、発売認可のための論議を呼んだ。一方で、節度あるレズビアン小説は自由に流通していた。
ユダヤ教の思想では、男性間の同性愛は厳しく非難されるが、女性間のそれには寛大な傾向があった。しかし今日のイスラエルでは、男女とも同性愛が禁止、迫害されることはあまりない。同性結婚こそ認可されないが、先ごろ同性愛者間の養子縁組を承認する判例が出された。また、例年テルアビブではWorld Pride(同性愛者のパレード)が行われている。
これら西側諸国のような同性愛は、イスラム教国では差別的な法を排除しているトルコを除いては滅多に認められない。サウジアラビア、イエメンでは、懲役、鞭打ち、果ては死刑などの厳しい処罰がなされる。イランでの同性愛を禁ずる法律は、幾分緩和、廃止されきたと伝えられるが、依然として男性間の同性愛に関しては禁止されている。(→ イスラーム教徒による性的マイノリティー迫害も参照)
多くのレズビアンのカップルが子供を望んでいるが、全ての国でこれが法制化されているというわけではない。
オーストラリアでは、最高裁にてレズビアンや独身女性の体外受精を禁止する法案が否決された。この決定の直後、ジョン・ハワード首相はカトリック教会の姿勢を保持する形で最高裁の決定を事実上却下し、体外受精の利用を防ぐために法改正を行った。これはレズビアンや独身女性の権利を主張する諸団体の激しい反発を招いた。
日本では、知人からの精子提供や、精子バンクの利用、ボランティア精子提供活動(known sperm donors)の利用といった方法によって、子を産み育てようと考えるレズビアンカップルが存在する。言い古された表現であるが、「子はかすがい」であり、出産や子育てを通じてレズビアンカップルのきずながより深まるケースもあるものと考えられる。
単為生殖は植物や昆虫ではよくあることだが、哺乳類においては通常はみられない。しかしながら今日の科学技術は2匹の雌ネズミから仔ネズミを作ることに成功している。この研究が進めば、2人の人間の女性を、その間に生まれてくる子供の遺伝学上の両親とすることができる可能性もある。また、男性でも女性でも、どのような個人でも、クローン技術によって「生殖」することができる可能性が示されている。
今日までの歴史の中で、多数のレズビアンが、芸術・文化の上で活躍してきた。
ヨーロッパでの性科学の影響が出始める20世紀より前にも、法で禁止されている男性間の同性愛とは対照に、女性同性愛がほとんど目に見えない形で存続していたことが学術的な見地から報じられた。また一方で、Karl Heinrich Ulrichs、リヒャルト・フォン・クラフト=エビング、ハヴロック・エリス、Edward Carpenter、マグヌス・ヒルシュフェルトら性科学者の概念によって、女性同性愛は広く知られるようになった。
女性の同性愛が広く知られるようになると、医学的な見地から示されるようにもなった。
フロイトは、著書「性道徳に関する3つの論文, Three Essays on the Theory of Sexuality (1905年)」の中で、性愛の対象を倒錯した(女性が女性として女性を愛する)同性愛者(現在の定義では同性愛は性的倒錯には含まれないが)と共に、男性の特徴を女性が持つことによる(女性が男性として女性を愛する)同性愛について触れている。この「第三の性」については、後にマグヌス・ヒルシュフェルトらによって広められることとなる。フロイトは自らこうした“特殊な”患者を多く診てきたわけではないことを自認していたため、医学的、生物学的見地よりも心理学的な考察に重点を置いた。これらのフロイトの論文が英語圏に知れ渡ったのは1920年代になってからである。当時フロイトの見解は精神医学者らによって否定されていたが、昨今の生物学的研究では、ヒルシュフェルドによる、「第三の性」が同性愛の魅力への解釈との説を裏付ける報告がなされている。
これら性科学と心理学の融合は、多くのレズビアンに関する文化や作品への基調となった。著名な例では、古典的な表現に習うことをやめ、同性愛者の言葉で性を綴った1928年のラドクリフ・ホールの小説「寂しさの泉, The Well of Loneliness」がある。
1980年代以降、レズビアンはますます音楽界(Melissa Etheridge、k.d.ラング、Indigo Girlsなど)、テレビ界(エレン・デジェネレス、ロージー・オドネル、ポーシャ・デ・ロッシなど)、スポーツ界(マルチナ・ナブラチロワ、アメリ・モレスモ、リサ・レイモンド、ビリー・ジーン・キングなど)、 漫画界(Alison Bechdel、Diane DiMassaなど)に活躍の場を広げている。最近ではPat Califia、ジャネット・ウィンターソン、サラ・ウォーターズらによる芸術写真や文章において、レズビアンの官能美が注目されている。また、ビビアンの旅立ち、Go Fish、恋するアナベル、ウォーターメロン・ウーマン、Oranges Are Not The Only Fruit、Everything Relative、ホット・チョコレートなどのレズビアンやバイセクシュアル、トランスジェンダーを扱った映画作品も増えている。Jane Rule、Vin Packer、Ann Aldrich、Ann Bannonらの小説も増刷されている。文豪カミール・パーリア、ジャーメイン・グリアらもレズビアンに共感している。最近では、アメリカ合衆国のドラマLの世界がその人気の裏づけになった。
レズビアンは、フェミニズム、愛情、性生活、結婚、子育てなどに関連して、メディアの関心事となっている。一方で興味本位や偏見などのよからぬ意図によって恣意的にイメージそのものが操作され、ネタとして食い荒らされているという意見を述べる者もいる。
なお日本では2000年代に入ってからのいわゆる「百合」ブームによって、レズビアンをモチーフにしたマンガ・アニメ・小説が多数発表されている[20]。
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