ルドルフ・ウィルヒョウ : 約 4,150 件 ルードルフ・ウィルヒョウ : 約 13 件
出典(authority):フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「2015/07/12 15:14:44」(JST)
ルードルフ・ルートヴィヒ・カール・フィルヒョウ(Rudolf Ludwig Karl Virchow、発音[ˈvirço] / [ˈfirço][1]、1821年10月13日 - 1902年9月5日)はドイツ人の医師、病理学者、先史学者、生物学者、政治家。白血病の発見者として知られる。姓は「ウィルヒョー」「ヴィルヒョー」などと表記することもある。
プロイセン王国・ポンメルンのシフェルバイン(現:ポーランド・西ポモージェ県シフィドビン(英語版))生まれ。ベルリンにあったプロイセン陸軍士官学校で医学を学び、1843年にベルリン大学で博士号を取得して、1847年にプロイセン陸軍士官学校の教授に就任した。2年後に政治上の理由によりヴュルツブルク大学の教授に就任して、そこで解剖学を研究した。1856年からベルリン大学で病理学の教授を務めた。
彼の法則でもっとも有名な物は「全ての細胞は他の細胞に由来する」という物である。(ラテン語のモットー、"omnis cellula e cellula"として知られている。)これは、全ての生命でなく、特定の細胞やその細胞のグループしか病気にならないという彼の発見とつながる。彼は細胞病理学、比較病理学(人間と動物に共通する疾患の比較)、人類学の基礎を作った。また、彼の死後になって確立された、静脈血栓症の形成に関する三つの要因(血管の障害・血流のうっ滞・血液性状の変化)は、彼の名を冠して「ウィルヒョーの3要素」(3徴、3原則、3条件などとも、Virchow's triad)と呼ばれている[2]。
晩年は保守化し、ベルリンで「病理学の法王」として君臨した。ことに、センメルヴェイス・イグナーツ(ゼンメルワイス)の消毒法(産褥熱の研究)に対する、初期の反対者の一人でもあった。当時最大の病理学者であるウィルヒョーの反対は影響力が大きく、センメルヴェイスがウィーンからハンガリーへ去る原因の一つを作ったと思われる(その後、センメルヴェイスは自身の学説が受け入れられないまま、悲惨な死を遂げた)。
彼はまた「医療はすべて政治であり、政治とは大規模な医療にほかならない」[3]と宣言し、公衆衛生の改善を強く訴え、ベルリンに近代的な上・下水道を作るために政治家として働いた(ベルリン市議会議員(1859年 - 1902年)、プロイセン王国下院議員(1862年 - 1902年)、ライヒ議会(ドイツ帝国議会)議員(1880年 - 1893年))。リベラル政党進歩党の共同創設者兼メンバーとして、ビスマルクの政治的な敵対者であった。
1869年、彼は人類学、民俗学、先史学の学会を設立した。このことは、ドイツの考古学調査を調整し、発達させることに非常に役立った。
1884年、彼はロンドン王立協会の外国人会員に選出され、1892年には王立協会よりコプリ・メダルを授与された[4]。
1902年9月25日、ベルリンで死去。80歳没。
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