出典(authority):フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「2015/10/30 18:27:08」(JST)
この項目では、銀行制度の歴史や銀行制度についての一般的な情報について説明しています。日本の銀行法上の銀行については「普通銀行」をご覧ください。 |
銀行(ぎんこう、英: bank)とは、以下のようないくつかの意味がある。
民間の銀行の場合、株式会社形態の場合と協同組合又は相互会社形態の場合がある。前者は営利法人として対外的に銀行業務を行うものであり、後者は相互扶助を目的とする中間法人として主として会員・組合員向けに融資業務を行うものである。例えば日本の場合、前者には普通銀行(リンク先に「業務の範囲」の節)、長期信用銀行および株式会社商工組合中央金庫が該当し、後者には協同組織金融機関が該当する。
「金融仲介」「信用創造」「決済機能」の3つを総称して銀行の3大機能という。これらの機能は銀行の主要業務である「預金」「融資」「為替」および銀行の信用によって実現されている。3大機能において、「金融仲介」と「信用創造」は各銀行が常に単独で行える業務である。ただし「決済機能」は、複数銀行間の決済が手形交換所というラウンドテーブルで機能しており、かつてその処理が煩雑を極めたことから現代とみに合理化し、国際決済は寡占産業となった。
銀行業務を行うにあたっては、信用が重要な位置をしめる。そのため、経営が悪くなっても活動を続けることが出来る他の産業とは根本的に異なり、経営が悪くなれば信用がなくなり、取り付け騒ぎに発展して破綻したり、批判を受けながら政府の救済を受けたりする。
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預金を貸し付ける銀行業務と、株式や債券を引き受け投資家に販売する証券業務とを銀行が兼営する場合には、下に並べた2つの問題が指摘される[6]。これらが理由となり、銀行やその子会社は、その銀行業務と証券業務を分離することがある。一方、国際決済機関のある欧米では、銀行と証券会社が一体となったユニバーサル・バンクが一般的である。
アメリカでは1929年の世界恐慌をきっかけにグラス・スティーガル法が制定されてから銀行による証券業務が制限されていた。現在はグラム・リーチ・ブライリー法によって廃止されている。アメリカは銀証分離国ではない。
日本においては、旧証券取引法[7]65条において銀行(預貯金取扱金融機関)が金融商品取引行為を業として行うことは、投資目的や信託契約に基づく場合などを除いて禁止されていた(禁止規定は公共債に適用されないが、公共債を対象として銀行の営みうる業務範囲は旧銀行法で明文規定がなかった)[8]。しかし日本共同証券の設立過程で、銀行は証券業界へ人材を進出させるなどして事実的に支配した。そして1993年4月の金融制度改革関連法施行に伴い、銀行・信託・証券の相互参入が認められたことから実質的に銀証分離が撤廃された[8]。さらに金融ビッグバンにより銀行等の投資信託の窓口販売の導入(1998年12月から解禁)が導入されるなどして[9]、現在は登録金融機関ならば証券業務を営めるようになっている。
かつてグラス・スティーガル法は、銀行業務と証券業務の間で分離を維持する中国のような米国圏外の金融システムに対する影響力を持った[10][11](金融商品取引法65条のモデルにもなった[8])。2008年からの金融危機の余波において、中国での投資銀行と商業銀行の分離を維持することに対する支持は、依然として根強い[12]。
日本ではかつて、安全運用されるはずの銀行預金がリスクの高い証券会社の証券投資に回されていた。
1955年、大蔵省は証券19社に対して次のような資金調達を認めた。顧客に売った金融債を引き渡さずに有償で借用し(運用預かり)、これを担保として銀行などから資金を借り入れる行為である。インターバンク短期金融市場からの借り入れは利子のかさむ原因となった[13]。この行為は1998年7月現在禁止されている[14]。
昭和30年代は銀証分離規定に安全が保証されたこともあって、個人の貯蓄が銀行預金に集中していた。企業も株式より銀行から借り入れることが多かった。そこへ神武景気や岩戸景気が起こって、さらに利幅が大きい株式投資信託が売り出され、ほとんど需要が原因で株価が高騰した。1961年に公社債投資信託が売り出されたあたりから、株式の出来高と新株公開企業数が倍加した。
このような業容の拡大にあって、認可を受けた証券会社は運用預かりで資金を確保し、この大部分が自社の投機目的による株式購入に用いられた。ここで買い付け済みの株式を担保として、さらに資金を借りて株を買うこともあった。こうして事実上の信用創造[15]を行いレバレッジ効果を高めていった矢先、昭和40年不況が訪れ株価が下落[16]、証券会社は損失を出した。すると証券会社は運用預かりで確保した資金を借金返済に使い始めた。この間にも株価は下落を続けた。金融債を払い戻すには手持ちの株を売るしかないのに、深刻な事態となっていた。この点、ブローカーを本業としていれば深手を負わずに済んだだろうと、財務調査官だった加治木俊道が指摘している。坂野常和が通達を出して画一的な運用制限を試みたが、諸事情により徹底されなかった。そこで銀行は証券各社へ人材を派遣するようになった。ここで、銀行自体は旧証取法65条の範囲で営まれながら、皮肉にも銀行は証券会社の証券業務に関する情報を手にするようになったのである。
バンクという語はイタリア語のbanco(机、ベンチ)に由来する。これはフィレンツェの銀行家たちによってルネサンスの時代に使われた言葉で、彼らは緑色の布で覆われた机の上で取引を行うのを常としていた。明治時代にバンク(bank)を銀行と訳したのは、漢語に依拠している。行は漢語で店を意味し、また金ではなく銀であるのは(当時東アジアでは銀が共通の価値として通用していたため)(銀貨を参照)金と銀の双方が候補で、一説によれば語呂が良いから銀行とされた[17]という。
金融機能の起源としては両替商が古くからあり、フェニキア人による両替商が知られていた。古くはハムラビ法典には商人の貸借についての規定が詳細に記述されており、また哲学者タレスのオリーブ搾油機の逸話などで知られるように、古代から高度な金融取引・契約はいくつも存在していたと考えられるが、一方で貨幣の取り扱いや貸借には宗教上の禁忌が存在している社会があり、例えばユダヤ教の神殿では神殿貨幣が使用され、信者は礼拝のさいにローマ皇帝の刻印がされた貨幣を神殿貨幣に両替し献納しなければならなかった。ユダヤ・キリスト・イスラム教では原則として利息を取る貸付は禁止されていたので、融資や貸借は原則として無利子(売掛・買掛)であった(ユダヤでは同宗以外への利付貸付は容認されていた)。これらの社会においては交易上の利益は認められていたので実質上の利子は中間マージンに含まれていた。両替商が貨幣の両替において金額の数%で得る利益は手数料であった。
貸付・投資機能が高度に発達したのは中世イタリア、ヴェネツィア、ジェノヴァ、フィレンツェにおいてである。遠隔地交易が発達し、信用による売掛・買掛売買が発達し、有力商人が小口商人や船乗りの決済を代行することから荷為替あるいは小口融資が行われるようになった。中世イタリアのジェノバ共和国の議会は借金の元利支払のための税収を、投資家の組成するシンジケート(Compera)に預けた。1164年には11人の投資家によって11年を期間としたシンジケートが設定されていた。ヴェネツィア共和国の議会は1262年、既存の債務を一つの基金に整理し、債務支払いのために特定の物品税を担保に年5%の金利を支払う事を約束したが、これは出資証券の形態を取り登記簿の所有名義を書き換える事で出資証券の売買が可能なものであった。中世イタリアの都市国家ではそれぞれの都市の基金が債務支払の担保にあてられた税を管理した。
13世紀頃の北イタリアではキリスト教徒が消費者金融から一斉に撤退し始めるがその理由ははっきりしない。ヨーロッパ最古の銀行は1406年(または1407年)にジェノヴァで設立されたサン・ジョルジョ銀行とされている。15世紀にはユダヤ教のユダヤ人金融が隆盛を極める。しかし15世紀後半にはフランチェスコ会の修道士の高利で貧民を苦しめるユダヤ人という説教により次第に衰退し、公益質屋(モンテ・ディ・ピエタ)が作られそのさいモンテ運営を擁護するために伝統的な徴利禁止論を克服する論理を生み出した[18][19]。
北イタリアからバルト海にかけ、商人の経済活動が高度化してゆくなかで次第に金融に特化する商人が登場しはじめる。商業銀行と商社は業態的につながりが深いといわれている。イギリスではマーチャント・バンクの伝統があり、これは交易商人たちが次第に金融に特化していったものである。日本の総合商社はマーチャントバンクに大変類似しているとも言われる[20]。現在のような形態の銀行が誕生したのは、中世末期のイギリスにおいてである。
日本でも江戸時代には両替商があり、また大商人による大名貸しなど融資業や決済代行業務を請け負った。初の商業銀行は、明治維新後に誕生した第一国立銀行(第一勧業銀行を経て、現在のみずほ銀行)となっている。これは日本初の株式会社(解釈により異なる場合があるが)でもあった。
イギリスの場合、1650年代には個人銀行の業務がロンドンの商人たちにすでに受け入れられており、満期為替手形の決済に関連した貨幣取り扱い業務の記録が見られるという[21]。彼らの主要な決済手段は金(ゴールド)であった。貨幣経済の興隆に伴い商業取引が増大し、多額の金を抱える者が出てきた。金を手元に抱え込むリスクを懸念した金所有者は、ロンドンでも一番頑丈な金庫を持つとされた金細工商ゴールドスミスに金を預けることにした。
ゴールドスミスは金を預かる際に、預り証を金所有者に渡した(「金匠手形」)。これは正貨の預金証書であったから、紙幣でありながら交換価値を持つことが出来た。そこで所有者はキリのいい単位で金を預け、その預り証をそのまま取引に用いる(債権譲渡する)ことがあった。これは決済業務の起こりとなった。
しばらくして、ゴールドスミスは自分に預けられている金が常に一定量を下回らないことに気付いた。先のように預かり証が決済に用いられるだけ一定量が引き出されずに滞留したのである。ゴールドスミスは、この滞留資金を貸し出しても預金支払い不能にならない(破たんしない)と考えて運用するようになった。
こうして貸し出した金は再び預けられたり、預けさせられたりした。ここで派生的預金を生じた。このうち滞留の見込まれる割合が再び貸し出しに回された。そして派生的預金の再貸し出しはくりかえされた。このようにして発行され続けた預り証の総額は、金庫に保管された正貨の総額と比べて桁違いに多くなった。これは信用創造であった。通貨供給量を増加させて貨幣経済の成長を促した。信用創造は現代の金融機関が行っても景気を刺激する。ただし、現代の派生的預金が預金口座のデータであるのに対し、当時の派生的預金は紙幣であった。
やがてイギリス全土に同業者が現れ、とくにドイツやオランダから商人たちが流入し決済業務を開始することがイギリスのマーチャントバンクすなわち商業銀行の母体となった。当初はそれぞれが国王から独自に特許を取り預り証を発行していた。市場には多種多様な紙幣が流通していた。フランス革命前後および19世紀初頭にかけて、紙幣の多様性は金融システムをしばしば混乱させた。また、金融業者が結託して敵対する金融機関の預り証(銀行券)を蒐集し、これを一度に持ち込み正貨の払い戻しを要求して破たんさせるという手口がよく行われた。そこで1844年のピール条例により、イングランド銀行(イギリスの中央銀行)以外での銀行券の発行が禁止された。中央銀行以外は商売替えを迫られて、預り証を金融仲介する貯蓄銀行あるいは商業銀行として発展した。
中央銀行に管理され、今や現金となった預り証の交換価値を保証しているのは、資産を預かる側の払い戻し能力であり、つまり中央銀行の保有する正貨や有価証券である。このような現金通貨は、時に政府による紙幣濫発や中央銀行による国債大量引き受けなどが原因して著しく交換価値を失った(インフレーション)。一方の貯蓄銀行と商業銀行では、現金通貨量に対して預金通貨量の上回る金額が信用創造で増すにつれて、銀行は預金引き出しに備えるようになった。これは時として信用収縮へ発展した。信用収縮のときに経済活動は低調となり、金融危機へつながることもあった。さらに19世紀から20世紀初めまでは、金融危機に端を発する恐慌が頻発した(1927年の日本における昭和金融恐慌など)。第二次大戦以降はケインズ政策の採用などもあり、先進資本主義国は恐慌を克服したとされていたが、近年のリーマン・ショックを端緒とする世界金融危機などが恐慌と表現されることもある。
Fair Finance Guide International『Transparency & Accountability in the Financial Sector』[22][23]
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