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出典(authority):フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「2019/12/16 20:16:10」(JST)
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多紀 元堅(たき げんけん/もとかた、寛政7年(1795年) - 安政4年2月13日(1857年3月8日))は、江戸時代末期の幕府医官。諱は元堅、号は茝庭(さいてい)、通称は安叔(あんしゅく)。幕府医学館考証派を代表する漢方医。子に同じく幕府医官の多紀元琰がいる。
人物
江戸時代後期、医学館総裁を務めた多紀家の分家・矢の倉多紀家の初代。医学館総裁多紀元簡(号は桂山)の第5子として生まれる。はじめ町医者として市中で開業していたが、天保6年(1835年)12月16日、幕府に召し出されて一家を興し、奥詰医師に任命される。翌7年(1836年)11月19日に奥医師に任命され、同年12月16日に法眼に叙せられる。同11年(1840年)12月16日、法印に昇進し、楽真院と称した。のちに、将軍徳川家慶の諡号「慎徳院」の「慎」と「真」の類似からこれを避け、楽春院と改称した。その後没するまで、家斉・家慶・家定の3代に仕えた。
考証派の学風は、古典医学書の収集・復元に努めるもので、その成果は中国のそれを凌駕するといわれる。元堅自身も『傷寒論述義』をはじめとする多くの医書を著したほか、原坦山・佐藤元萇・蒲生重章などの門弟多数を教育した。幕末から明治初期にかけての医師には「多紀楽春院の門人」と称する者がきわめて多い。森鴎外の史伝「渋江抽斎」「伊沢蘭軒」にも元堅が登場する。
逸話
- 身分の上下にかかわらず診療し、貧困の者には金を与えることもあったという。
- 島津斉彬も患者のひとりで、天璋院の入輿にも一定の関与をしている。
- 将軍家定の臨終の場に元堅がいたというのは小説の虚構であり、事実ではない。元堅の死去は安政4年、家定の死去は安政5年である。
- 元堅らが松本良順の考査を行なったのは、良順が蘭方医の子弟であったからではなく、幕府医官に養子が入る際には才学を確かめるという医学館の通常の職務を執行したにすぎない。
参考文献
- 森潤三郎『多紀氏の事績』 思文閣出版、1931年。
- 小曾戸洋「多紀元堅」『朝日日本歴史人物事典』 朝日新聞出版、1994年。
関連項目
- 城官寺(東京都北区上中里) - 東京都指定史跡「多紀桂山一族墓所」
典拠管理 |
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- 新谷 哲一
- 漢方療法 = Journal of kanpo medicine and herb : 漢方臨床のための 23(9), 608-613, 2019-12
- NAID 40022080032
- 新谷 哲一
- 漢方療法 = Journal of kanpo medicine and herb : 漢方臨床のための 23(8), 540-545, 2019-11
- NAID 40022067727
- 新谷 哲一
- 漢方療法 = Journal of kanpo medicine and herb : 漢方臨床のための 23(7), 472-477, 2019-10
- NAID 40022020497
Related Links
- 美術人名辞典 - 多紀元堅の用語解説 - 江戸後期の医師・幕臣。江戸生。多紀元簡の次男。本姓は丹波、幼名は鋼之進、字は亦柔、通称は安叔、号に楽真院・楽春院・苣庭・三松等。医学館で講書しながら幕府の奥医師となり、次いで ...
- 多紀元堅の著述 郭 秀梅・真柳 誠 一、はじめに 多紀元堅(一七九五~一八五七)は多くの研究書を著した。本年は元堅の生誕二百年になるが、その研究業績は父・元簡と兄・元胤の著述とともに、江戸医学の頂点を示したといっていい。
- 2010年3月24日放送 漢方医人列伝 「多紀元簡・多紀元堅」 二松学舎大学 東アジア学総合研究所 准教授 町 泉寿郎 【多紀元簡の伝記】 多紀元簡は、宝暦5年(1755)に幕府医官である多紀家第6代の元悳の長男として、江