-ミイラ化
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ミイラ(木乃伊)とは、人為的加工ないし自然条件によって乾燥され、長期間原型を留めている死体のことである。永久死体であって「枯骸」とも呼ばれる。
同様に長期間保全される状態となった死体としては他に、「死蝋(しろう)」がある。これは、ミイラが主に乾燥によって成立するものであるのに対して、湿潤環境によって成立する永久死体である。
古くは神秘的な力があると考えられることが多く、人工的なミイラ形成は、死者を後世まで残すなどの目的で古代から行われた。数百年、数千年を経て、いまだ生前の面影を漂わせるミイラもある[3]。
死後、身体の腐敗が進行するよりも早く急激な乾燥(水分が人体組織の重量の50%以下になる)が起きると、細菌の活動が弱まる。脱水症状などの条件から死体の水分含有量が少ない場合にはミイラ化しやすい。自然発生ミイラが砂漠の砂の中からみつかることが多いが、これは急速な乾燥をもたらす自然条件のほかに、そこにできる死体が脱水症状を起こして餓死するなどで死亡したものであるため、死亡時の水分量がもとより少ないという条件が整っているからと考えられる。自然条件においては、成人一人がミイラ化するのに必要な期間は3か月と言われている。こういった自然のミイラは全身が完全なミイラとなっている例は少なく、身体の一部分のみがミイラ化して残っている場合が多い[4]。
自然環境において全身ミイラが少ない理由の一つとして、死体の中で最初に腐敗が進行するのが内臓であることが挙げられる。自然状態においては内臓が体外に出ることがないため、人体の完全なミイラ化は起きにくい。ただし内臓が液化して体外に流出したり、野生動物に喰われたりしたあとに急速に乾燥するとミイラが形成されることがある。そのため、人為的にミイラを作る場合には、脳を含めた内臓を摘出し、外部で火気などを用いて乾燥させ、あるいは薬品によって防腐処理をほどこした。その内臓は体内に戻すか、副葬品の壷の中などに納めるなどの手段が取られた。
日本語の「ミイラ」は16〜17世紀にポルトガル人から採り入れた言葉の一つで、ポルトガル語: mirra は元来「没薬」を意味するものであった。「ミイラ」への転義の詳しい経緯は未詳であるが、没薬がミイラの防腐剤として用いられた事実や洋の東西を問わず“ミイラ薬”(ミイラの粉末)が不老長寿の薬として珍重された事実があることから、一説に、“ミイラ薬”(の薬効)と没薬(の薬効)との混同があったという[5]。只、薬に使用したため、体調を崩し、死者まで出た事から、後には燃料として、欧米中心に輸入されていたと早稲田大学名誉教授でエジプト考古学研究の権威吉村作治は述べている[6]。
英語: mummy をはじめとするヨーロッパの各言語における名称は、ラテン語: momia を経てアラビア語: مومياء (mūmiya')に由来し、さらに遡れば「瀝青」を意味するペルシャ語: mumiya が語源であったとされる[7]。また、漢字表記の「木乃伊」は、オランダ語: mummie (モミー)または英語: mummy (マミー)の音写とするのが一般的である[8]。日本語の漢字音で読む「モクナイイ」はあまりにも原音から遠い印象があるが、北京語でこれを読むと「ムーナイイー」(普通話: mùnǎiyī)のようになる。『本草綱目』人部「木乃伊芳」[9]に薬として記述されるように、かつては中国でも漢方薬としてミイラが使われていた。日本ではこうした語の表記だけを中国語から借用し、「ミイラ」の語に充てるようになった。
16〜17世紀のヨーロッパにおいて、ミイラは一般的な薬として広く使用されていた[10]。そのため、ミイラを取ることを生業とする者が増えた。なお、ミイラを取るためには墳墓の中に入ったり、砂漠を越えたりする必要があることから危険がつきまとい、ミイラを探す人間が行き倒れることもあった。彼らの死体がどれほどの確率で自然乾燥によりミイラ化したかは不明であるものの、このことを指して「ミイラ取りがミイラになる」という言葉が生まれたという説がある。数多くの盗掘が行われ、近現代の考古学研究を阻害する要因となったのは事実である。しかし、実際には本物のミイラを取りに行くよりも捏造品を売りさばくほうが楽であり、墓暴きが横行したという諺の成立由来は怪しい。なお、薬としてのミイラは日本にも輸入されており[11]、江戸時代には大名の間で人気だったという。
古代エジプトでは、内臓を摘出したあとの死体を70昼夜にわたって天然炭酸ナトリウム(ナトロン)に浸し、それから取り出したあと、布で幾重にも巻いて完成させる方法でミイラが作成された。包帯を巻いたミイラのイメージは、この古代エジプトのミイラ作成に由来する。理性の場であると信じられていた心臓を除いた胸部と腹部の臓器や組織は下腹部の切開によってすべて取り出され、脳の組織は鼻孔から挿入した鉤状の器具によってかき出された。取り出された他の臓器は「カノプス壺」と呼ばれる壷に入れられて保管された。
ミイラ作りは来世・復活信仰と密接に結びついており、犬、猫、ワニ、ヒヒ、トキなど、神の化身とされた動物のミイラも作成された。
19世紀の考古学においては、エジプトから輸入されたミイラの解剖が、研究目的だけではなく見世物として、ヨーロッパの各地で行われた。これらの興行的な解剖においては、記録などは通常行われず、このために貴重な資料が多数失われた。当時のヨーロッパでは、外科的施術自体が見世物として行われており、特に死刑囚に対する解剖ショーは人気を博していたという[12]。
死者をミイラとする風習は南米アンデス地方でも見られる。アンデスのミイラの特徴は膝を折り腹部に付けた姿勢(蹲踞)を取ることである。製法は以下の通り。死者の内臓と筋肉を取り除く。次に、何らかの火力で乾燥させる。最後に特定の姿勢に固定し、体全体を布で覆い、かごに収め、最後に副葬品と併せて再度布を巻くというものである。紀元前200年ごろまで続いたパラカス文化は、形成期においてすでにミイラの製作に習熟していた。インカ帝国が成立すると、特に高位の人物のミイラに対しては羽や装飾品、金属製の仮面を取り付けるようになる。作成したミイラは祠に安置したり、住居に置いて、あたかもミイラが生きているかのように話しかけ、食事を供し、亡くなった近親者への愛情と尊崇の念を示し続ける。
古い文献(『大唐西域記』『西京雑記』『抱朴子』など)に入定ミイラの記述があり、『高僧伝』では晋の元康8年(298年)に訶羅竭という僧が死に火葬に付されたが半焼けになってしまい、座したままでも崩れなかったため石室に安置して礼拝したと記されている。『大唐西域記』では玄奘が西域の僧のミイラについて言及している。
現存するミイラとしては広東省韶州市南華寺にある唐代中期の禅僧慧能の肉身仏(即身仏)などがある。なお、中国では現在でも即身成仏としてミイラが作られている。ただし、生きたままミイラになるのではなく、死後に遺言によってミイラとして作られるものであり、全身に金箔を塗ることにより生前に近い形を保とうとしている。
これらより有名なミイラは「楼蘭の美女」として知られる古代のオアシス都市楼蘭のミイラであろう。シルクロードブームで一躍知られるようになった。西域は乾燥(砂漠)地帯で、ミイラができ上がるのに好条件であり、そのため中国におけるミイラは西域に多い。
密教系の日本仏教の一部では、僧侶が土中の穴などに入って瞑想状態のまま絶命し、ミイラ化した物を「即身仏」(そくしんぶつ)と呼ぶ。仏教の修行の中でも最も過酷なものとして知られる。
この背景にあるのは入定(にゅうじょう)という観念で、「入定ミイラ」とも言われる。本来は悟りを開くことだが、死を死ではなく永遠の生命の獲得とする考えである。入定した者は肉体も永遠性を得るとされた。
日本においては山形県の庄内地方などに分布し、現在も寺で公開されているところもある。また、中国では一部の禅宗寺院で、今もなおミイラ化した高僧が祀られている。
木の皮や木の実を食べることによって命をつなぎ、経を読んだり瞑想をする。まず最も腐敗の原因となる脂肪が燃焼され、次に筋肉が糖として消費され、皮下脂肪が落ちていき水分も少なくなる。生きている間にミイラの状態に体を近づける。生きたまま箱に入りそれを土中に埋めさせ読経をしながら入定した例もあった。この場合、節をぬいた竹で箱と地上を繋ぎ、空気の確保と最低限の通信(行者は読経をしながら鈴を鳴らす。鈴が鳴らなくなった時が入定のときである)を行えるようにした。行者は墓に入る前に漆の茶を飲み嘔吐することによって体の水分を少なくしていたといわれている。漆の茶にはまた、腐敗の原因である体内の細菌の活動を抑える効果もあった[13]。
これらは死を前提にするため当然ながら大変な苦行であり、途中で断念したものも多数存在する。また、死後腐敗してミイラになれなかったものも多い。ミイラになれるかなれないかは上記の主体的な努力によることと、遺体の置かれた環境にも大きく影響するだけでなく、関係者に裏切られること無く掘り出されるかにも左右される。
人名 | 寺院名 | 所在地 | 入定年または没年 | 享年 |
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無際大師 | 總持寺 | 神奈川県横浜市鶴見区 | 延暦9年(790年) | 91 |
弘智法印 | 西生寺 | 新潟県長岡市寺泊野積 | 貞治2年(1363年) | 82 |
弾誓上人(?) | 阿弥陀寺 | 京都府京都市左京区大原古知原 | 慶長18年(1613年) | 63 |
本明海上人 | 本明寺 | 山形県鶴岡市東岩本 | 天和3年(1683年) | 61 |
宥貞法印 | 貫秀寺 | 福島県石川郡浅川町小貫 | 天和3年(1683年) | 92 |
舜義上人 | 妙法寺 | 茨城県桜川市本郷 | 貞享3年(1686年) | 78 |
全海上人 | 観音寺 | 新潟県東蒲原郡阿賀町豊実甲 | 貞享4年(1687年) | 85 |
心宗行順法師 | 瑞光院 | 長野県下伊那郡阿南町新野 | 貞享4年(1687年) | 45 |
忠海上人 | 海向寺 | 山形県酒田市日吉町二丁目 | 宝暦5年(1755年) | 58 |
秀快上人 | 真珠院 | 新潟県柏崎市西長島鳥甲 | 安永9年(1780年) | 62 |
真如海上人 | 大日坊 | 山形県鶴岡市大網 | 天明3年(1783年) | 96 |
妙心法師 | 横蔵寺 | 岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲神原 | 文化14年(1817年) | 36 |
円明海上人 | 海向寺 | 山形県酒田市日吉町二丁目 | 文政5年(1822年) | 55 |
鉄門海上人 | 注連寺 | 山形県鶴岡市大網 | 文政12年(1829年) | 62 |
光明海上人 | 蔵高院 | 山形県西置賜郡白鷹町黒鴨 | 嘉永7年(1854年) | 不明 |
明海上人 | 明寿院 | 山形県米沢市簗沢小中沢 | 文久3年(1863年) | 44 |
鉄龍海上人 | 南岳寺 | 山形県鶴岡市砂田町 | 明治14年(1881年) | 62 |
仏海上人 | 観音寺 | 新潟県村上市肴町 | 明治36年(1903年) | 76 |
歴代奥州藤原氏のミイラが知られる。
詳細は「中尊寺金色堂#藤原4代のミイラと副葬品」を参照
代 | 氏名 | 安置場所 | 没年 | 享年 | 備考 |
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初代 | 藤原清衡 | 中尊寺金色堂・清衡壇 | 大治3年7月13日(1128年8月10日) | 72 | |
二代 | 藤原基衡 | 中尊寺金色堂・基衡壇 | 保元2年3月19日?(1157年4月29日?) | 52? | |
三代 | 藤原秀衡 | 中尊寺金色堂・秀衡壇 | 文治3年10月29日(1187年11月30日) | 66 | |
四代 | 藤原泰衡 | 中尊寺金色堂・秀衡壇・首桶内 | 文治5年9月3日(1189年10月14日) | 23 | 頭部のみ |
社会主義国では、過去の指導者を神格化する目的でその遺体をミイラ化(エンバーミング)し、民衆に公開することがある。レーニン(レーニン廟)、スターリン、金日成、金正日 (錦繍山太陽宮殿)、毛沢東(毛主席紀念堂)、ホー・チ・ミン(ホー・チ・ミン廟)など。この場合強力な防腐処置によって腐敗を止めていると考えられている。その他、生前の本人の希望によりミイラにされる遺体も存在する。
ニューギニアや西・中央アフリカ、アメリカ北西海岸、カナダ西海岸の部族は、死後の遺体を乾燥させ、または燻製にしてミイラにし、墓の上や家中に安置する風習を持っていた。ニューギニア、アフリカにおいては、現在も続けている部族がある。 また、カナリア諸島(スペイン)にはグアンチェ族のミイラがある。
死体がたまたま特殊な物理環境に置かれたときに、ミイラ化してそのまま保存されることがある。
ミイラは長期間死体が保存され不気味であると認識され、また1920年代にツタンカーメンのミイラが発掘された後にカーナヴォン卿ら数名が謎の死を遂げたことが「王家の呪い」によるものとされ、人を呪い殺すというイメージもあり、ホラー映画や書物にしばしば生き返って登場する。映画ではアメリカのユニバーサル映画が製作した、フランケンシュタインモンスター役で知られる怪奇スター、ボリス・カーロフ主演の『ミイラ再生』(1932年)が始祖とされ、多くの後継作やリメイクが製作されてきた。日本でも1961年に日本テレビ製作の連続テレビ映画『恐怖のミイラ』が放送された。すでに死体であることから、通常人間が死に至るセオリー(心臓を突き刺す・首をはねるなど)をおこなっても死なず(というよりももとから死んでいるのだから動きを止めず)、そういった物語の登場人物たち、および読者・観客を恐怖させた。なお、それらの場合では火や聖水に弱いなどの特徴が見られる。なお、アメリカ映画『ハムナプトラ』の原題は"The Mummy"すなわち『ミイラ』であるが、現代日本の文化状況下において安直すぎると考えたことからか、日本公開時に直訳でない邦題が付けられた。CM等の映像媒体において現在ではミイラはフランケンシュタイン(の怪物)と対で包帯を巻かれた状態でコミカルに登場することが多い(例:マスターカードのCMなど)。また、日本のコメディ作品『ぐるぐるメダマン』では包帯の中身への興味を逆手に取り、ミイラ君の包帯がたびたび解けそうになり若干地肌が見えるという描写があった。
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