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出典(authority):フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「2015/01/02 21:32:39」(JST)
倉敷市立児島市民病院 | |
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情報 | |
英語名称 | Kurashiki Municipal Hospital |
前身 | 児島市立児島市民病院 |
標榜診療科 | 内科、外科、呼吸器内科、消化器内科、神経内科、脳神経外科、整形外科、形成外科、アレルギー科、リウマチ科、小児科、泌尿器科、産婦人科、眼科、耳鼻いんこう科、リハビリテーション科、放射線科、麻酔科 |
許可病床数 | 198床 一般病床:165床 |
開設者 | 倉敷市 |
管理者 | 江田良輔(院長) |
地方公営企業法 | 一部適用 |
開設年月日 | 1950年(昭和25年) |
所在地 |
〒711-0921
岡山県倉敷市児島駅前二丁目39番地
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位置 | 北緯34度28分2秒 東経133度48分21秒座標: 北緯34度28分2秒 東経133度48分21秒 |
二次医療圏 | 県南西部 |
PJ 医療機関 | |
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倉敷市立児島市民病院(くらしきしりつこじましみんびょういん)は、岡山県倉敷市児島にある市立病院。
1950年(昭和25年)、旧児島市が設立、児島市と倉敷市の合併により、1967年(昭和42年)より倉敷市立となる。
設立当時、旧児島市には開業医による診療所はあったが、救急車を受け入れるような総合病院がなく、倉敷市の倉敷中央病院に搬入されることが多かった。また、地元の開業医の手に余る患者は下電バス(天城線)で中央病院に通うことにもなっていた。当時の児島市は全国的に知られた繊維・縫製産業で賑わっていたこともあり、そのような問題を解消するため、市立病院を設立することとなったのである。
当初は味野で開院、1958年(昭和33年)12月に児島中学校近くの児島小川へ新築移転し、倉敷市となってからの1973年(昭和48年)10月に現在地へ再移転した。
合併前の旧市が市立病院を有しなかった経緯から、現在の倉敷市は中心市街地から離れた児島地区だけに市立病院があるという、ある意味歪な状態にあり、結果的に民間病院である倉敷中央病院が市立病院的な役割を担うことになっている。
児島市民病院は、地域住民の要望に充分に応えており、それなりに好評ではあるが、設立から50年以上を経た現在でも、下電バスで倉敷中央病院に通う高齢の患者は少なくない。
平成20年3月、倉敷市は院長人事に端を発して内科医(岡山大学第2内科から派遣)の大半が退職する事態に陥っていることを明らかにした。同病院の収益のおおむね半分を担う内科が休診に追い込まれかねない。
平成20年4月より、「総合診療科」を新設。外科医師が内科診察も含め総合的な診察を行っている。
また平成20年8月には産婦人科医師の退職が予定されており、産婦人科閉鎖も危惧されている。同病院以外に児島地区で分娩を扱う医療機関はなく、地元出産を望む妊婦も他地域で出産せざるを得ない状況となる。
平成20年8月26日から小児科の時間外診療を休止することが19日、分かった。今月に入り2人の小児科医のうち1人から「体調不良のため休みたい」との申し出があったため、残った医師の負担などを考慮し、時間外診療の休止を決めたという。4月の内科診療時間短縮と10月からの産婦人科の分娩受け入れ中止に続き、さらに医療体制が縮小することになる。
平成20年10月1日、岡山大学小児科より新たな小児科医1名が派遣され、診療体制は以前と同様に回復した。
平成21年2月16日、倉敷市は市立児島市民病院の渡辺院長を17日付で解任すると発表した。後任の院長は岡山大から招へいする考えで、しばらく診療部長の竹井氏が院長代理を務める。
平成21年4月1日 内科医師が派遣されることとなった。
平成21年4月1日、内科医師4名(常勤医3名、非常勤医1名)が派遣された。うち1名は院長職で就任した。
平成21年9月30日に小児科医1名が家庭の事情により退職した。当面、小児科医1名の体制となるが、10月15日より新たな小児科医1名の派遣が予定されている。
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