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ペダニオス・ディオスコリデス | |
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Πεδάνιος Διοσκορίδης
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生誕 | 40年頃 属州キリキア |
死没 | 90年 |
国籍 | ローマ帝国 |
職業 | 医者 薬理学者 |
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ペダニウス・ディオスコリデス(Pedanius Dioscorides 古希: Πεδάνιος Διοσκορίδης 40年頃 - 90年)は古代ギリシアの医者、薬理学者、植物学者である。小アジアのキリキアのアナザルブス(Anazarbus)の出身である。ローマ皇帝ネロの治世下の古代ローマで活動した。ギリシア・ローマ世界の至るところで産する薬物を求めて、方々を旅する機会があった。
ディオスコリデスがブリタニアで軍医として働いていたとき、地元の人々が「オークの小さな果実」と呼ぶものを発見した。これの正体はカーミンカイガラムシという豆粒大の昆虫で、オークの木から採取したカイガラムシを磨り潰して煮ると、鮮やかな紅い染料が採れた。当時、紅い染料はアカネの根で染めていたオレンジがかかった赤と、辰砂と呼ばれる赤色の天然顔料があったが、カイガラムシの染料はアカネの根の赤よりも鮮やかで、水銀鉱で採れる辰砂よりも安全に採取できた。
ディオスコリデスの発見した紅い染料は、ネロ帝の時代の華美な空気にあっていたため、瞬く間に広まることになった。新たに昆虫採取産業が興り、スペインのようにカイガラムシがたくさん採れたローマの属州では税金の代わりに袋詰めにしたカイガラムシを納めることもできたという。
ディオスコリデスは全5巻からなる『薬物誌』(古希: Περὶ ὕλης ἰατρικής)を母語であるギリシア語で著した。『薬物誌』は、薬草図を付記されて1600年頃まで用いられ、薬草に関する歴史上もっとも影響を与えた書物となった。日本ではそのラテン語訳題 羅: De Materia Medica libriquinque(逐語訳:「医薬の材料について」五書)を略して『マテリア・メディカ』とも通称される[1][2]。多くの古代ギリシアの書物は中世盛期からルネサンス期に再発見されたものであるが、本書はそれらと異なり古代より途絶えることなく流布していた。『薬物誌』は何世紀もの間、何度も写本として書き写されたが、それらの写本にはしばしば注釈が書き加えられたり、アラビアやインドの文献に由来する若干の増補がなされた。特にアラビア由来の加筆部分はイスラム圏の薬草学の進歩を反映している。最も重要な写本群はアトス山の修道院群に伝えられて現在に残存している。
『薬物誌』は薬草学の歴史上重要な文献であるというだけでなく、古代のギリシア人やローマ人やその他の文化における薬草の知識や使用法を知ることができるという点で貴重である。さらに、すでに失われたダキア人やトラキア人の言葉の植物の名前が記録されている。ぜんぶで600ほどの植物についての記述がある。
挿絵のついた写本が多く残っており、その一部は古く5世紀から7世紀にまで遡る。初期の写本の中で最も有名なものは Vienna Dioscurides である。
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